野坂昭如
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野坂 昭如
(のさか あきゆき)
アサヒグラフ』1967年1月27日号
ペンネーム阿木 由起夫(あき ゆきお)[注釈 1]
クロード 野坂(クロード のさか)
立川 天皇(たてかわ てんのう)
誕生野坂 昭如(のさか あきゆき)
(1930-10-10) 1930年10月10日
日本 神奈川県鎌倉市
死没 (2015-12-09) 2015年12月9日(85歳没)
日本 東京都
職業作家作詞家歌手政治家
国籍 日本
最終学歴早稲田大学第一文学部仏文科抹籍[1]
活動期間1963年 - 2015年
ジャンル小説随筆評論作詞脚本
文学活動焼跡闇市派
代表作『おもちゃのチャチャチャ』(作詞、吉岡治と共作)(1963年)
エロ事師たち』(1966年)
アメリカひじき』(1967年)
火垂るの墓』(1967年)
『同心円』(1996年)
主な受賞歴日本レコード大賞作詞賞(1963年)
直木三十五賞(1967年)
講談社エッセイ賞(1985年)
吉川英治文学賞(1997年)
泉鏡花文学賞(2002年)
安吾賞新潟市特別賞(2009年)
デビュー作『エロ事師たち』(1963年 - 1966年)
(小説としての処女作)
配偶者野坂暘子(妻)
子供野坂麻央(長女)
愛耀子(二女)
親族野坂相如(父)
十三代目田中傳左衛門(娘婿)
ウィキポータル 文学
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クロード 野坂
(くろーど のさか)
出生名野坂 昭如(のさか あきゆき)
別名阿木 由起夫
立川 天皇
生誕 (1930-10-10) 1930年10月10日
神奈川県鎌倉市
出身地 日本
死没 (2015-12-09) 2015年12月9日(85歳没)
学歴早稲田大学第一文学部仏文科[1]
ジャンルシャンソン
職業作家作詞家歌手政治家
担当楽器作詞

日本政治家野坂 昭如のさか あきゆき
生年月日 (1930-10-10) 1930年10月10日
出生地神奈川県鎌倉市
没年月日 (2015-12-09) 2015年12月9日(85歳没)
死没地東京都
出身校早稲田大学第一文学部仏文科[1]
前職参議院議員
所属政党(第二院クラブ→)
自由連合
配偶者野坂暘子(妻)
親族野坂相如(父)
参議院議員
選挙区比例代表
当選回数1回
在任期間1983年7月10日 - 1983年12月3日
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野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年昭和5年〉10月10日 - 2015年平成27年〉12月9日[2])は、日本小説家歌手作詞家タレント政治家

神奈川県鎌倉市で生まれる。程なく生母が亡くなり、兵庫県神戸市の親戚宅の養子に。空襲で養父を失い、疎開先で妹を栄養失調で亡くし放浪した。こうした体験から、「焼跡闇市派」を自称する。

早大仏文科中退。在学中からコント・テレビの台本、CMソングの作詞などで活躍。

『エロ事師たち』(1963年)で小説家デビュー。妹への贖罪から書いた『火垂るの墓』(1967年)、占領下の世相を描いた『アメリカひじき』(1967年)で直木賞受賞。コラムニストやコメンテーターとしても活躍した。

放送作家としての別名は阿木 由起夫(あき ゆきお)[注釈 1]シャンソン歌手としての別名はクロード 野坂(クロード のさか)、落語家としての高座名は立川 天皇[3](たてかわ てんのう)。
経歴
生い立ち1945年神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くす。

父は土木技師で戦後に新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)[4]。当時野坂家の住いは東京市麹町区隼町だったが、産み月近くなって両親が別居。昭如は神奈川県鎌倉市小町で誕生した。実母ぬいは自身を産んだ2月後に死別。生後半年で神戸の張満谷(はりまや)家へ養子に出される。

11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。

その後、上の妹を病気で、1945年神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県春江町(現坂井市)で栄養失調で亡くした[5]。後に福井県で妹を亡くした経験から贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記した。終戦時から大阪府守口市などを2年間転々とする。

なお、『火垂るの墓』の後、「空襲で父母をなくした」と長らく詐称していたが、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった。(1973年発表の「アドリブ自叙伝」で告白)。
学生時代

養祖母と養母と昭如は、守口市の親戚宅に頼ってくらしていた。

旧制大阪市立中学校在学中の17歳の1947年10月、養母の実家を頼り上京。しかし、11月に窃盗をはたらき、多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、野坂姓に戻る。旧制新潟高等学校文乙(ドイツ語クラス)に編入。なお、旧制高校文甲(英語クラス)の上級生に丸谷才一がいた。

旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学第一文学部仏文科に入学。早稲田大学時代の友人には中島敏行(詩人、皆生温泉の旅宿「海潮園」主人)、斎藤保(のち新聞記者)らがいた。新潟の禅寺・大栄寺で修行した後、父の参議院出馬にスタッフとして参加。
業界入り野坂がモデルを務めた『ヒッチコック・マガジン』の表紙

1955年に再上京し、友人の紹介で写譜屋を開始。暮れに三木鶏郎音楽事務所の事務員となる[6]。寺での修行もあり、掃除が得意だったことが鶏郎に気に入られたという[7]

1956年、鶏郎が有限会社冗談工房を発足(社長・永六輔)。専務職に就くが実質業務は鶏郎のマネージャーだった。経理ミスが発覚し、マネージャーをクビとなる(永六輔は「野坂の使い込みがひどくて会社が傾いた」と発言しており[8]、野坂自身も使い込みの事実を認め、警察の追及を恐れて使い込みの公訴時効を六法全書で調べたことがあると述べている[9])。この年、大学を中退する[6][注釈 2]

1957年、27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由起夫[注釈 1]の筆名で放送作家としてコントを量産。いずみたくと組んでCMソング作詞家として活躍[6]。作詞家としては「おもちゃのチャチャチャ」の第5回日本レコード大賞童謡賞の受賞、放送局初のPRソング「OBCソング」を作詞している。

小林信彦編集の雑誌『ヒッチコック・マガジン』の表紙のモデルもつとめた。この作家デビュー前の時期、雑誌『奇譚クラブ』に「戸山一彦」名義で寄稿していたことが、元編集者・飯田豊一により証言されている[10]

60年安保闘争当時、野末陳平漫才師コンビ「ワセダ中退・落第(わせだちゅうたい・らくだい)」を組んで一時期活動していた[11][12]
作家、歌手、タレント、政治家として

一方、雑誌等でコラムも発表し、1962年に刊行した『プレイボーイ入門』で「元祖プレイボーイ」として脚光を浴びる。また、ブルーフィルムを集めて自宅で上映することも、趣味兼副業として行っており、その体験から書いた小説『エロ事師たち』で1963年に作家デビューする。

1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗り、その体験から既存の右翼左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。1970年には言論出版妨害事件の表面化に伴い、他の作家とともに創価学会系の出版物への執筆拒否を表明。「潮」に連載していた小説の連載を打ち切った[13]

また、講談社の編集者・大村彦次郎と「酔狂連」というグループを結成。メンバーは、当時の若手作家である筒井康隆田中小実昌長部日出雄小中陽太郎泉大八滝田ゆう後藤明生佐木隆三阿部牧郎、華房良輔、黒田征太郎、吉村平吉、揚野浩、村松博雄、安達瞳子(華道家)、金井美恵子ら。「中華そばの屋台の引き方」や「チャルメラの吹き方」を習うなど、まさに酔狂な遊びをした。

作家としてはその後、1985年『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、1997年に『同心円』で吉川英治文学賞受賞、2002年に『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。

1972年、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』7月号に「四畳半襖の下張」(永井荷風著)を掲載。同年8月21日、刑法175条「猥褻文書の販売」違反で書類送検された[14]1973年2月21日に起訴。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。

この頃、今東光を会長とする無頼派作家の集まり「野良犬会」のメンバーとなる。副会長柴田錬三郎、メンバーに、黒岩重吾戸川昌子吉行淳之介井上ひさし梶山季之など[15]

また、1970年代ラグビー日本代表だった原進との親交があり、近鉄ラグビー部社員を退職後、野坂が主宰した草ラグビーチームのコーチを務めた[16]のち、プロレスラーとして国際プロレスに入団・デビューするにあたり、「阿修羅・原」のリングネームを命名したこともあった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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