野口雨情
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ペンネーム野口 雨情
誕生野口 英吉[1]
1882年5月29日
日本 茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市
死没 (1945-01-27) 1945年1月27日(62歳没)
日本 栃木県河内郡姿川村(現:宇都宮市鶴田町)
墓地小平霊園
職業詩人童謡作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学中退
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野口雨情(のぐち うじょう、1882年明治15年)5月29日 - 1945年昭和20年)1月27日)は、詩人童謡民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた[2]
生涯

本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明[3])の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる[4]

4年制尋常小学校・4年制高等小学校を終了後に上京[5]。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し坪内逍遥に師事するが[1]、1年余りで中退し詩作を始める[1]。このとき1901年(明治34年)、英吉は19歳であった[5]

1904年(明治37年)、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ[6]。このとき、家の没落をふせぐために家族(つまり亡父や親族)から栃木県の資産家の娘である、同い年(23歳)の高塩ひろとの政略結婚をお膳立てされており、英吉は結婚するが[7]、もともと気の進まない話で[5]、後年破綻する。

この頃酒におぼれたというが[5]、詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表していた[5]。「雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を水戸から自費出版。しかし反響は得られなかった[4]

妻ひろは、1906年(明治39年)に長男の雅夫を生んだ[6]。しかし雨情は窮屈な家庭を飛び出し、事業で一旗揚げる名目で樺太[6]にわたるが失敗した[8]。一緒に大泊までともなった芸者に金を持ち逃げされてしまい、残った金で貨車一両分の林檎を東京に送って売ろうともくろんだが腐ってしまった[5]

妻ひろが上京して雨情を連れ戻しに来たが、そのまま東京にとどまり詩人になると宣言[5]1907年(明治40年)一月より『朝花夜花』なる民謡月刊を発行するが不発。同年、三木露風相馬御風らと共に早稲田詩社(月二回会合する会)を結成するが[1]、その後しばらく詩作から遠ざかる。この時期(1906 - 1909年)、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた[5]。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ[5]。雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて解雇され、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わる[5][注 1]

『小樽日報』を首になったちょうどそのころ(1907年10月)、妻は女児みどりを出産したが、この子は一週間ほどで亡くなった[5]。のちの『シャボン玉』はこのとき夭折した娘のことを歌っている[5]とされるが、根拠がないとする説もある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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