野中_(京丹後市久美浜町)
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野中
地名
野中の旅館街
日本
都道府県 京都府
市町村 京丹後市
大字久美浜町野中
人口(2020年)
 ? 合計88人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号629-3561

野中(のなか)は、京都府京丹後市久美浜町の地名。大字としての名称は久美浜町野中(くみはまちょうのなか)。2020年(令和2年)の国勢調査における世帯数は45世帯、人口は88人。
地理佐濃谷川

久美浜町東部に位置する[1]久美浜湾に向かって流れる佐濃谷川の中流部左岸に位置している[1]。久美浜町の面積の約4分の1を占める佐濃地区に含まれ、佐濃谷の中心集落であるとされる[2]。南には標高446メートルの青地岳がある[3]

野中を中心とする集落は安養寺佐野にもまたがっている。野中郵便局は野中ではなく安養寺にあり、佐濃駐在所は佐野にある。野中には旧村社や寺院が存在しない。

かつては久美浜町と峰山町を結ぶ国道312号が集落内を通っていたが、2013年度(平成25年度)から2022年度(令和4年度)には集落を迂回する野中バイパスの整備が行われ、2022年(令和4年)11月26日に供用が開始された[4]。国道312号からは北に向かって京都府道668号野中小天橋停車場線が分岐している。
歴史
近世

江戸時代には丹後国熊野郡野中村であり、当初は宮津藩領、寛文6年(1666年)に幕府領、寛文9年(1669年)に宮津藩領、延宝8年(1680年)に幕府領、天和元年(1681年)に宮津藩領、享保2年(1717年)に幕府領と推移した[3]。丹後国の幕府領を管轄していたのは久美浜代官所である。

村高は『慶長郷村帳』や『延宝郷村帳』によると122石余、『天和村々高帳』や『宝永村々辻高帳』や『天保郷帳』や『旧高旧領』によると134石余だった[3]。元治元年(1864年)には野中を中心とする集落で大火があり、野中で42戸、安養寺で12戸、佐野ハゴで6戸、計60戸が焼失した[5]
近代

1868年(明治元年)には久美浜県の、1871年(明治4年)には豊岡県の所属となり、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[3]。1875年(明治8年)から1882年(明治15年)にかけて編纂された「共武政表」によると、戸数は47戸、人口は201人だった[3]

1874年(明治7年)12月には野中郵便取扱所(後の野中郵便局)が開設されたが、熊野郡では久美浜郵便局に次いで設立された郵便局である[6]。開設当初の取扱人は深田安兵衛であり、1883年(明治16年)1月には奥田重左衛門が後任となった[7]

1889年(明治22年)4月1日には町村制の施行により、野中村・佐野村・安養寺村・尉ヶ畑村・二俣村・小桑村の区域をもって熊野郡上佐濃村が発足し、上佐濃村には野中を含む6の大字が設置された[7]。当初は野中に上佐濃村役場が設置されていたが、1905年(明治38年)には村役場が佐野に移転した[7]。上佐濃村は農業を主とする集落であり、農家の副業として養蚕業などが行われていた[7]

1897年(明治30年)頃には農家の副業として機業が取り入れられるようになった。1900年(明治33年)2月12日には野中に機業工場である熊野株式会社が設立されたが、1901年(明治34年)と1902年(明治35年)には生糸織物の価格が暴落して大損失を出し、1902年(明治35年)4月に解散した[8]。1935年(昭和10年)11月30日には松寿機業株式会社が設立され、50台の織機で織物製造や販売を行っていた[8]。しかし、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)には企業整備令によって操業が休止させられ[9]、松寿機業は1944年(昭和19年)1月に解散した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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