野中 郁次郎
日本学士院より公表された肖像
生誕 (1935-05-10) 1935年5月10日(89歳)
日本・東京都
国籍 日本
研究分野経営学
研究機関南山大学
防衛大学校
一橋大学
北陸先端科学技術大学院大学
出身校早稲田大学(学士)
カリフォルニア大学バークレー校(修士(MBA))
カリフォルニア大学バークレー校(博士(Ph.D))
博士課程
指導教員フランセスコ・M・ニコシア
他の指導教員ニール・J. スメルサー
アーサー・スティンチコーム
主な指導学生宮原博昭[1]
沼上幹[2]
網倉久永
野中 郁次郎(のなか いくじろう, 1935年5月10日 - )は、日本の経営学者。一橋大学名誉教授、カリフォルニア大学バークレー校特別名誉教授、日本学士院会員。元組織学会会長。
知識経営の生みの親として知られる。
2017年、カリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクールから同大学最高賞の生涯功績賞を史上5人目として授与された。 東京都墨田区出身。父は職人。太平洋戦争中、疎開先の静岡県富士郡吉原町(現富士市吉原)でグラマンF6Fヘルキャットによる機銃掃射を受け九死に一生を得る。笑いながら機銃掃射を行う米兵の姿を見て復讐を誓った。兄と同じ東京都立第三商業高等学校に進学するが簿記や珠算に興味がわかず、卒業要件の簿記3級と珠算3級を得ることができず、卒業が危ぶまれる状況になったため、教員の計らいで商業コースから進学コースに移り、複数の私立大学仏文科、独文科、政治学科などを受験。その中で唯一受かった早稲田大学政治経済学部政治学科に進学した。大学に合格した時は、教員から「お前でも受かるのか。」と驚かれたという。父からは政治家になることを期待されたが、政治学にはほとんど興味が沸かず、大学の授業にはあまり出ず、政治サークルやESSでの活動に熱中した[8]。 大学卒業後は、兄の友人が務めていた富士電機製造株式会社に入社。就職活動では朝日新聞社も受けていたが、補欠合格だったため、兄の友人の紹介で富士電機製造を受けたところ、たまたま論文試験で大学時代に唯一関心を持って学んだ事項が出たため合格したという。入社後は3年間の工場勤労担当を経て、幹部研修の企画、労働組合執行役員、幹部教育、マーケティング、財務、経営企画などを担当。また職場の同僚と結婚した。会社で様々な業務を担当する中、経営学の手法が全てアメリカから来ていることに気づき、アメリカ留学を決意。いくつか願書を出し, 1967年、最初に入学許可が出たカリフォルニア大学バークレー校経営大学院に進学。この際留学資金は知人が株投資に失敗して失ってしまったため、会社は退職ではなく休職扱いとしてもらえ、また人事部長からの50万借り入れや、友人からのカンパで資金を捻出したという[9]。アメリカでは妻が働き生活を支え、経営学修士(MBA) 取得を経て, 1972年9月カリフォルニア大学バークレー校経営大学院博士課程を修了し、博士号を取得した。指導教員はフランセスコ・M・ニコシア
人物・経歴