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野中和夫
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府堺市
生年月日 (1944-01-01) 1944年1月1日(80歳)
身長159cm
体重55kg(現役時)
血液型O型
選手情報
所属大阪支部
登録番号2291
登録期27期
級別A1級
弟子佐野隆仁(3243)
倉谷和信(3290)
特徴自在
選手実績
デビュー日1969年3月24日
選手引退日2009年12月10日
記念優勝 56 回
SG優勝 17 回
GI/PGI優勝 39 回
GII優勝 1 回
GIII優勝 4 回
一般戦優勝 71 回
通算優勝132 回
通算勝率 7.50
通算勝利出走6501回 2574勝
主要獲得タイトル
賞金王決定戦(1988年,1992年,1993年)
総理大臣杯(1991年)
笹川賞(1974年,76年,87年,90年,91年,93年)
グランドチャンピオン決定戦(1995年)
オーシャンカップ(1996年)
MB記念(1974年,1979年,1985年)
全日本選手権(1974年,1976年)
GI 競艇名人戦(2001年)
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野中 和夫(のなか かずお、1944年1月1日[1][2] - )は、大阪府堺市出身[2]の元競艇選手。 1944年1月1日、大阪府堺市に生まれる[2]。 横山やすしとは、堺市立旭中学校時代の同級生でもあり、大の親友。「野中」「雄二(本名)」と呼び合っていた[† 1]。また、後にやすしが所属する阪田エージェンシーの社長で住職の阪田教揮 1969年3月24日に住之江競艇場でデビュー。その競走に横山やすしも応援に駆けつけてレース終了後に抱きしめた。これまでにSG17勝(史上最多)を挙げ、1995年には当時6つあったSG競走を全て制覇する「グランドスラム」を達成。翌1996年には新設されたSG・オーシャンカップ競走も制覇して7冠グランドスラマーとなった。1990年代後半あたりからは衰えが目立ち、また若手選手へのレース中の暴行疑惑が問題化するなどトラブルメーカーとしても知られていた。 2005年3月より、競艇選手の団体組織である社団法人日本モーターボート選手会の会長に就任する。レースには2月の戸田競艇場でのレースを最後に出場していない。日本モーターボート選手会の会長を2009年までの4年間努める。 2009年11月18日、年齢的な問題(2009年で65歳)から「まだ走りたい気持ちはあるが減量が利かない体になってきた」との理由で、福岡競艇場でのトークショーに出演している際に引退を表明した[† 2]。同年12月19日に住之江競艇場で行われる賞金王決定戦の期間中に引退セレモニーを行い、それに先立ち12月10日に選手登録を返上した。 引退時のコメント「自分の人生は、本当に競艇一筋のものでした。故横山やすし氏から『俺の代わりに競艇選手になってくれ』と言われて競艇選手になったのがきっかけですが、故笹川良一前会長をはじめ、住之江競艇場の関係者の皆様には殊のほか面倒をみていただき、また、全国のお客様から長きにわたり、いつも熱いご支援をいただいたことが、一競艇選手としての誇りであり心の支えであったと思います。選手として引退はしますが、これからはこれまで私を支えていただいた全国のお客様や関係者の方々に感謝の気持ちを伝えていきながら、選手の立場を離れて別の視点からより多くの人に競艇の様々な魅力を伝えていきたいと考えております。これまでの暖かいご声援、誠にありがとうございました。」[† 3] 2010年(平成22年)、ボートレース殿堂[† 4]入りを果たした。[† 5] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
通称「モンスター」[3]。
来歴
日本電気技術専門学校(現在の日本理工情報専門学校)卒業。競艇選手になる前は3年間、菱電サービス(後の三菱電機ビルテクノサービス、現在の三菱電機ビルソリューションズ)のエレベーター技師として働いていた経験もある[4]。また、空手選手としても有名であった(1966年 全国空手道選手権大会 男子組手3位)。野中は長期出張が増える中で空手との両立に悩み、菱電サービスを退職して大阪の自動車修理工場に勤務するようになる[4]。
横山やすしとの関係
競艇選手として
「モンスター」という名前の由来
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期間最高勝率9.53(当時は現在のようなSGレースで2点増し及びG1レースの1点増しがなく、SGのみ1点増しであった)や、SG競走の制覇記録17など数多くの記録を打ちたて未だ破られていないことから「モンスター」と呼ばれていた。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
エピソード
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「勝負師」と呼ばれることを極力嫌う。「俺は勝負師やない、勝ち師や。勝負師とは勝ったり負けたりする人のことやから、俺は勝つことしか考えとらん。」との理由から、自らを「勝ち師」であると称した。