野上弥生子
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野上 弥生子
(のがみ やえこ)
『写真近代女性史』(1953年)より
誕生1885年5月6日
日本大分県臼杵市
死没 (1985-03-30) 1985年3月30日(99歳没)
日本東京都世田谷区成城
墓地東慶寺
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴明治女学校
ジャンル小説
代表作『海神丸』(1922年)
『大石良雄』(1926年)
『真知子』(1928年 - 1930年)
『欧米の旅』(1943年)
迷路』(1948年)
『秀吉と利休』(1962年 - 1963年)
『森』(1972年 - 1985年)
主な受賞歴読売文学賞(1958年)
女流文学賞(1964年)
文化勲章(1971年)
朝日賞(1981年)
日本文学大賞(1986年)
配偶者野上豊一郎
子供野上素一(長男)
野上茂吉郎(次男)
野上耀三(三男)
親族長谷川三千子(孫)
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野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年明治18年〉5月6日 - 1985年昭和60年〉3月30日)は、日本小説家大分県臼杵市生まれ[1]夏目漱石の紹介で『縁』を発表[1]して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。日本芸術院会員[1]文化功労者文化勲章受章者[1]
略歴野上豊一郎と野上弥生子(1939年)1952年

フンドーキン醤油の創業家に生まれた[1]。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。漱石から受けた「漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし」という言葉を「生涯の御守り」とし、99歳で死去するまで現役の作家として活躍した。法政大学女子高等学校名誉校長も務め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残した。

昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩のための活動の中にあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた『若い息子』『哀しき少年』などを書き、また日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友を持ち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。第二次世界大戦が勃発した時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)はこの時期の激動の証言としての価値も高い。

戦後、弥生子は宮本百合子が中心人物であった新日本文学会に賛助会員として加わったがまもなく辞退している。しかし百合子との交友は続き、1951年に百合子が亡くなったあとも、命日には宮本家に花を贈ることを恒例としていた。宮本側からも1950年に亡くなった豊一郎の命日には、毎年花が贈られてきたという。

戦後も知識人の生き方を問う作品は多く、戦時下には書けなかった『黒い行列』の続編『迷路』で、敗戦までの日本の知識層のさまざまな生き方を重層的に描き、その後は秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』を発表した。最晩年には、自らの少女時代の周辺のひとびとから材料をとった『森』を執筆していたが後数章を残し完結には至らず、それが絶筆となった。また『迷路』が完結した後に舞台となった中国を訪問し、延安まで足を伸ばすなど行動力も旺盛であった。

1956年の ハンガリー動乱に際しては、「ロシアといえば、第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度独占資本家、地主、…軍人の支配に逆転しようとするのを、少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…[2]」と武力介入したソ連を擁護し、動乱により発生したハンガリー難民を救済しようとした〈日本ハンガリー救援会〉の活動を、「事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする[3]」、と批判した。

1967年4月に行われた東京都知事選挙では、美濃部亮吉の選挙母体「明るい革新都政をつくる会」の代表委員に名を連ねた[4][5]

1985年3月30日、老衰のため成城の自宅で死去した。99歳没。戒名は天寿院翰林文秀大姉、墓所は鎌倉東慶寺にある。弥生子が亡くなる直前までの日記が全集に入っている。
人物

弥生子は昭和初期から約60年、北軽井沢の大学村に春から秋にかけて過ごしていた。最近では、同じく北軽井沢に隠遁生活を送っていた哲学者田邊元と密かな恋愛関係にあったことが判明し、その往復書簡300通余りが『田辺元・野上弥生子往復書簡』として岩波書店から刊行されている[6]

若い頃、豊一郎の一高時代の同期生として知り合った中勘助に愛の告白をしたことがあり、その後何十年もわだかまりを抱き続けた[7]。この一件は、巌本善治の失脚、法政騒動(豊一郎が大学を追われた学内紛争)と並び、弥生子の人生の腐植土になった出来事だったと述べている[7]。晩年、夫の死をきっかけに中とは再会し、中が没するまで交流が続いた[7]
関連施設野上弥生子文学記念館(大分県臼杵市軽井沢高原文庫に移築された野上弥生子の書斎兼茶室

野上弥生子文学記念館臼杵市にある弥生子の生家(小手川酒造)の一部を改装した記念館で、1986年に開設された。

軽井沢高原文庫軽井沢町の軽井沢高原文庫に北軽井沢の山荘の離れ(書斎兼茶室)が1996年に移築された。

親族

父・2代目小手川角三郎(酒造業、資産家。二十三銀行監査役
[8])- 1850年生。旧名・常次郎。海部郡原村の農民だった先代角三郎(旧名・悦次郎)が臼杵の酒屋に奉公したのち「代屋」の屋号で独立し、臼杵の御三家の一つと称されるほどの成功を収め、長男の常次郎が1875年に家督を継いで2代目となった[9]

夫・野上豊一郎

長男・野上素一京都大学教授、イタリア文学者)- 東大言語学科卒。イタリア留学中ローマハンガリー女性マルギットと結婚し娘・光子をもうけるも帰国後離婚、のちに千葉亀之助の長女・静と再婚。

次男・野上茂吉郎(東京大学教授、物理学者) - 東大物理学科卒。九州大学学習院大学の教授を経て東大物理学教授、定年後法政大学工学部教授[10]


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