重瀬
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 埼玉県 > 戸田市 > 重瀬

重瀬
大字
彩湖(荒川第一調節池
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}重瀬重瀬の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度49分38.39秒 東経139度37分44.17秒 / 北緯35.8273306度 東経139.6289361度 / 35.8273306; 139.6289361
日本
都道府県 埼玉県
市町村 戸田市
設置1944年昭和19年)2月11日
人口(2017年(平成29年)10月1日現在)[1]
 ? 合計0人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号335-0000[2]
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮

重瀬(おもせ)は、埼玉県戸田市北西部の大字[4]。旧新座郡下内間木村字重瀬・原通・北地蔵木・南地蔵木・山室・有毛・渦・奥渦・野中[5]郵便番号は335-0000。2010年2月1日現在の人口は0人[6]
地理

戸田市の北西部、荒川堤外に位置し[4]、北部を曲本、東部及び南部を内谷、荒川を挟んで朝霞市下内間木及び上内間木と接している。区域の東境は荒川の旧流路であり、かつてはこの境界線上に荒川が流れていた。中央に人工湖である荒川第一調節池彩湖が南北に貫いている。南北約1.2km、東西約0.9kmを占める[5]。彩湖の東岸と西岸はで行き来できるが、荒川を挟んだ朝霞市と重瀬との間は直接行き来することはできない。重瀬地区全域が荒川左岸河川敷であり、堤外地であるため、荒川の増水時には全域が冠水する。また地内の全域が彩湖・道満グリーンパークの施設内であるため、現在居住者はない。
河川

荒川 - 西辺を南流している一級河川。かつては渡船が存在し、地蔵河岸(道満河岸)が利用された。この渡船は渡し場の側に地蔵堂があったため地蔵木の渡しと呼ばれ、重瀬と荒川左岸の足立郡大野川とを結んでいた。

湖沼

彩湖 - 人工湖荒川第一調節池として利用されている。

歴史

1591年天正19年)5月17日、前年の小田原城落城を受けて、徳川家康が加藤源四郎正勝に内間木の他入間郡池辺村・大仙波村併せて300の土地を与えたとされている[7]。重瀬はこのうち内間木の一部だったとされる[注釈 1]。荒川左岸にあった重瀬は元来水害の多いところだったが、1629年寛永6年)に旧入間川が荒川の本流になって後水害の常襲地域となった[4]。たびたび水害に見舞われるため農民は土地の高いところにを作り、他は専ら原野での採集を産業としていた[7][注釈 2]。周囲を川と原野で隔てられていたので近隣の村との交わりも疎く、貧しく質素な暮らしぶりだった[8]。外来者が殆ど無い上に貧しい村だったために家々は戸を閉ざすことが無かったと言われる[7][注釈 3]江戸時代に入って後御料所となり、さらに後化政期には代官川崎平右衛門の支配となっている[7][注釈 4]1627年(寛永4年)に江川太郎左衛門による検地を受けている[8]

明治時代に入って重瀬地区の属する下内間木村は1872年(明治5年)の大区小区制では第二大区第六小区、翌1873年(明治6年)の熊谷県設置以降は南第二大区第六小区に配置された[10]1878年(明治11年)の郡区町村編制法において大区小区制は廃止されたが、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行の際下内間木村は上内間木村・浜崎村・宮戸村・田島村と合併し新座郡内間木村となり、重瀬地区はそれぞれ内間木村大字下内間木に属する小字となった[10]。この頃の重瀬地区には重瀬・原通・北地蔵木・南地蔵木・山室・有毛・渦・奥渦・野中の小字があったとされる[11]1896年(明治29年)3月29日には榑橋村及び新倉村の一部を除いて北足立郡への統合が行われ、重瀬地区は北足立郡内間木村大字下内間木のそれぞれ小字となった[10][12]

1910年(明治43年)8月11日荒川大洪水では家々は軒先まで水に浸かり、人畜・家屋・田畑に甚大な損害を受けた[4]。これを受けて荒川は大規模な改修工事を行い、流路の変更が行われた。その結果、1923年(大正13年)工事は完成したが、重瀬地区は荒川の西岸から東岸に移り、内間木小学校に通う児童が風雨の為渡船の出ない日は秋ヶ瀬橋を迂回しなければならないなど不便が多く[11]1944年(昭和19年)2月11日の戦時町村合併促進法により内間木村が志木町、入間郡宗岡村水谷村と合併し、志紀町となった際、重瀬地区は北足立郡美笹村に編入され、北足立郡美笹村大字重瀬として独立した大字となった。河川改修の結果、重瀬を含む堤外地は堤防による恩恵を受けることが全くできなくなった[5]。また蛇行した流路が直線化されたため秩父地方に大雨が降った5時間後には重瀬で出水し、大雨情報を受けてから水防の準備を行うことが事実上不可能になった[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef