重松 森雄
選手情報
国籍 日本
競技長距離走
種目30000m・マラソン
大学福岡大学
生年月日 (1940-06-21) 1940年6月21日(83歳)
生誕地福岡県福岡市[1]
自己ベスト
マラソン2時間12分00秒
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重松 森雄(しげまつ もりお、1940年6月21日 - )は、日本のマラソン選手。福岡県出身。1965年に世界最高記録を樹立した。 福岡県立福岡工業高等学校を卒業して、1959年九電工に入社する。 1960年に熊日30キロロードレースで当時の日本記録で優勝[1]。 九州一周駅伝などのレースに出場するが、1961年に病気に襲われ、療養を余儀なくされる。このとき、将来をことを考えて大学を出ておくべきだと決意し、九電工を退社。1962年に福岡大学に入学するという異色の経歴の持ち主である[2]。 1964年1月2・3日、第40回箱根駅伝に立命館大学と共に福岡大学が招待され、エース区間の2区を走った。日大の高口徹、中大の碓井哲雄ら並み居る関東の強豪の走者を差しおいて区間賞相当の記録をマーク(招待大学のため参考記録)[3]。1964年東京オリンピックの代表を逃したが、1965年4月のボストンマラソンに出場し、2:16:33の大会新記録で優勝。 さらにそれから53日後の同1965年6月12日、イギリスの第45回ポリテクニック・ハリアーズ・マラソン(ウィンザーマラソン)に出場し、前年の東京オリンピックでアベベ・ビキラが作った世界最高記録を更新する2:12:00の記録で優勝した。 この記録は1967年12月3日の国際マラソンで、オーストラリアのデレク・クレイトンが2:09:36.4を記録して更新され[4]、結果として2時間10分台の世界最高記録としては最後となった。 また、2020年現在、日本人が樹立した最後の男子マラソン世界記録である。 現在、クラブチーム「ファースト・ドリームAC」(福岡市)の監督。一般社団法人日本スロージョギング協会理事長[5]。 2015年、ボストンマラソンが毎年実施している「50年前の優勝者招待」の対象となり、渡米して「ボストンで優勝して自信がつき、世界記録につながった」とコメントするとともに、大会とは別に実施された5kmのファンランに参加した[6]。 2017年、長崎県の実業団チームメモリード
人物・来歴
2019年8月、その名を冠した「重松森雄杯 脊振山麓選抜小学生駅伝競走大会」が開催された[8]。 年月大会名タイム順位備考
マラソン成績
自己最高記録…2時間12分00秒(1965年6月)
1962.12朝日国際マラソン2:22:2315位
1963.03延岡西日本マラソン2:20:56.6優勝
1963.05毎日マラソン2:22:05.22位東京五輪のコースで開催
1964.02別府大分毎日マラソン2:21:34.26位
1964.04毎日マラソン2:20:32.25位東京五輪のコースで開催
1964.12朝日国際マラソン2:17:56.85位
1965.02別府大分毎日マラソン2:16:154位
1965.04ボストンマラソン2:16:33優勝
1965.06ポリテクニック・ハリアーズ・マラソン2:12:00優勝世界最高記録、自己最高記録
1966.02別府大分毎日マラソン2:16:169位
1966.08タイムスマラソン2:30:06.2優勝
1966.12アジア大会(バンコク)2:35:04.22位
1967.12国際マラソン2:20:5419位
1968.02別府大分毎日マラソン2:17:4610位
1968.04毎日マラソン2:17:154位
1968.08タイムスマラソン2:24:27優勝
1969.02別府大分毎日マラソン2:21:01.49位
1969.03新報那覇マラソン2:30:12優勝
1969.08タイムスマラソン2:24:42.23位
1970.09タイムスマラソン2:23:112位
1971.09タイムスマラソン2:26:29.86位
1971.12国際マラソン2:32:3634位
脚注^ a b ⇒選手・スタッフ紹介メモリード
^ 同時期に実業団から大学に進んだ陸上長距離選手に土谷和夫(八幡製鐵→日本大学)がいる。
^ 箱根駅伝過去の記録 2区詳細:第40回大会 1964年(昭和39年)
^ ⇒第21回大会 - 福岡国際マラソンプレーバック(マラソン公式サイト)
^ ⇒協会概要一般社団法人日本スロージョギング協会
^ 50年前の雄姿再び=ボストン優勝の重松さん?マラソン - 時事通信2015年4月20日(リンクは転載先)