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重慶爆撃(じゅうけいばくげき)は、日中戦争中の1938年(昭和13年)12月から1941年(昭和16年)9月にかけ、大日本帝国陸海軍航空部隊が当時中華民国の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な空襲[1]。当初は飛行場・軍事施設・政府中枢機関などに目標を限定して爆撃した戦略爆撃とされたが、視界不良、爆撃精度、目標の位置の関係で、一般市民にも多くの被害を出し、無差別爆撃と批判され、さらに後には市街地を区分して隈なく絨毯爆撃が行われるようになり、実質上も無差別爆撃と化していった[1]。これについては、当初は中枢機関の破壊・為政者らの殺害を目的の筆頭においていたものの、その目的が果たせないため、首都機能の破壊と市民からの戦争継続反対の声が挙がることを狙って、一般住民らの無差別殺害を意図して、市街地全体を狙って爆撃を行うようになっていったものだとする説がある[2]。 1937年(昭和12年)の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国の首都南京を攻略し占領した(南京攻略戦)。これに対して、?介石の中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行した。 大本営は、広大な中国大陸にこれ以上深入りして地上戦線を拡大することは、明らかに日本の国力戦力の限度を超えるものであり、全般情勢、特に対ソ連関係の変転に対応する戦略態勢の柔軟性を喪失するものと判断し、陸路からの攻撃を事実上断念した。[3] @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}こうした状況を受けて大本営は1938年(昭和13年)12月2日、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出した。[要出典]しかし、直ちに大規模な爆撃を行う能力は当時の日本陸・海軍には無く、また中国軍航空部隊の迎撃も無視する事は出来なかった。[要出典] 中央統帥部は現地部隊に対し「航空侵攻作戦は概ね1939年(昭和14年)秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に努めるように」と通達した。[要出典] 稼働率や飛行性能の劣るイ式100型重爆撃機(イタリアフィアット社製BR.20)や防御火器が貧弱な九三式重爆撃機では、中国軍の迎撃や対空砲火で被害が増大したため、防備の固められた重慶に対しては、より新鋭の九七式重爆撃機、九六式陸上攻撃機を主体とする陸海軍航空兵力による長距離侵攻を実施する事となった。[要出典] 1938年12月2日大本営は大陸命第241号を発令、華北・華中爆撃の企図について「政略中枢ヲ制圧擾乱スルト共ニ敵航空戦力ノ撃滅」と定め、「海軍ト協同スル」こととした。同12月26日最初の爆撃が中支那派遣軍が漢口の陸軍航空兵団に要請して行われた。1939年からは海軍航空隊も参加。爆撃は主に1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年(昭和15年)には延べ4,333トンに達した[4]。陸軍は運城、海軍は漢口及び孝感の飛行場から出撃した。重慶は中国の重要な工業都市でもあり、既に中国国民党政府の遷都前の1938年2月から試験的に爆撃が始まっていた。重慶爆撃に関する最初の 正式な命令である「大陸命 第二百四十一号」を受けて出された「大陸指第345号」では、その第6項に「在支各軍ハ特殊煙(あか筒、あか弾、みどり筒)ヲ使用スルコトヲ得、但シ之ガ使用ニ方リテハ市街地特ニ第三国人居住地域ヲ避ケ勉メテ煙ニ混用シ、厳ニガス使用ノ事実ヲ秘シ其痕跡ヲ残サザルガ如ク注意スベシ」とあり、初めから市街地爆撃があることを前提に、ガス弾の使用を市街地を避けることを条件に許可していた。
背景
立案
作戦の実行重慶爆撃を主導した井上成美支那方面艦隊参謀長日本軍爆撃後の重慶(1941年)