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日本の政治家重宗 雄三しげむね ゆうぞう
生年月日1894年2月11日
出生地山口県岩国市
没年月日 (1976-03-13) 1976年3月13日(82歳没)
出身校東京高等工業学校附属工業補習学校
(現東京工業大学附属科学技術高等学校)
前職明電舎代表取締役社長
所属政党(自由党→)
自由民主党
称号従二位
勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
藍綬褒章
参議院永年在職議員
第8-10代 参議院議長
在任期間1962年8月6日 - 1971年7月17日
天皇昭和天皇
第4代 参議院副議長
在任期間1953年5月19日 - 1956年5月9日
議長河井彌八
松野鶴平
第24代 運輸大臣
内閣第2次岸内閣
在任期間1959年4月24日 - 1959年6月18日
参議院議員
選挙区全国区
当選回数5回
在任期間1947年5月3日 - 1974年7月7日
貴族院議員
選挙区勅選議員
在任期間1946年8月14日 - 1947年5月2日
その他の職歴
第4代 自由民主党参議院議員会長
総裁:岸信介、池田勇人
(1959年 - 1961年)
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重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日[1])は、日本の政治家、実業家。
参議院議長(第8-10代)、参議院副議長(第4代)、運輸大臣(第24代)を歴任。 山口県岩国市出身。1912年(明治45年)3月、東京高等工業学校附属工業補習学校(現東工大附属高専攻科)を卒業して兄重宗芳水 3期9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人及び佐藤栄作両政権を支えた。その影響力の強さから、佐藤と岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。佐藤も重宗の意向に逆らっては法案審議もままならぬとて、しばしば議長室に自ら赴いて頭を下げるほどであった。 議長在籍時も自民党籍を持っていた重宗は、参議院自民党の過半を占める議員グループ「清風クラブ」を牙城に、参議院をまとめた。参議院自民党のトップとして閣僚人事にも影響を与えたため、閣僚推薦権を持っているはずの自民党参議院議員会長(林屋亀次郎ら)の存在感は薄らぐ一方であった。ポスト欲しさに日参する参議院議員は多く、「重宗詣で」と呼ばれた。その権勢から「重宗天皇」と称され、参議院は「重宗王国」とまで呼ばれた。 重宗は自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた「参議院の独自性」を守ろうとした節がある(松野鶴平の例と同じ)。議長時代には議事整理権などを駆使し、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定の強行採決をおこなった。 その独裁的な振る舞いや、総裁四選後の佐藤との関係悪化、さらには角福戦争も重なる中、「長いことはいいことだ」と四選を確信して議長選出馬宣言をする。しかし、河野謙三らのグループ「桜会」の批判勢力が台頭し、河野の議長選出馬を断念させる条件として自らが出馬断念に追い込まれ、1971年(昭和46年)7月17日退任。さらに、重宗が後継議長候補として推した木内四郎に反発した自民党の一部議員と野党が推した河野が当選している。 参議院議長在任日数の3,242日は参議院史上最長記録である。 1973年(昭和48年)春の叙勲で勲一等旭日桐花大綬章受章[2][6]。1974年(昭和49年)に政界引退、参議院議員当選5回を重ねた。1976年(昭和51年)3月13日死去、82歳。同年3月22日、青山葬儀所で自民党葬、告別式が行われた[7]。
来歴・人物
参議院議長