里谷多英
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里谷 多英
名前
本名里谷 多英
愛称
テディベア、タエ
カタカナサトヤ タエ
ラテン文字Tae Satoya
基本情報
国籍 日本
種目スキー・フリースタイル(モーグル)
所属フジテレビジョンスキーチーム
使用メーカー板:サロモン
ブーツ:サロモン
生年月日 (1976-06-12) 1976年6月12日(47歳)
生誕地北海道札幌市
ワールドカップ戦歴
デビュー年1991-1992
引退年2011-2012
表彰台7回
最高成績1位
通算成績2勝
世界選手権・最高成績
1995年12位(モーグル)
1997年15位(モーグル)
2001年7位(モーグル)
10位(デュアルモーグル)
2003年14位(モーグル)
6位(デュアルモーグル)
2009年9位(モーグル)
4位(デュアルモーグル)
オリンピック・最高成績
1994年11位
1998年 1位
2002年 3位
2006年 15位
2010年 19位

獲得メダル

1998 モーグル
2002 モーグル


最終更新日:2022年2月3日

里谷 多英(さとや たえ、1976年6月12日 - )は、日本の元フリースタイル・スキーモーグル選手。長野オリンピック金メダリスト・ソルトレイクシティオリンピック銅メダリスト(共に女子モーグル)。現在はフジテレビジョンに所属している。
来歴

北海道札幌市北区出身。札幌市立新陽小学校、札幌市立北陽中学校東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)体育コースを経て北海道東海大学(現:東海大学札幌キャンパス)を卒業。

スキーを始めたのは4歳の頃で[1]、モーグルは小学校5年生で始めた。父である里谷昌昭の指導のもと地元の手稲山スキー場で練習を積み[1]、同シーズンに札幌市のばんけいスキー場で初めて大会に出場した。

1989年度全日本選手権大会に6年生で出場し優勝[2]。これは全日本スキー選手権史上最年少記録となる快挙である[3]。中学生になるとFSS少年団に所属し、1年生の1990年度大会は宮越緑に敗れて2位[4]だったものの、翌シーズンの1991年度大会から1996年度大会まで6連覇[2]を達成した。

1992年(1991年度)2月29日、猪苗代で開催されたFISワールドカップに初参戦した(16位[5])。

1994年2月、リレハンメルオリンピックに出場し11位となった[6]。その後、スティーブ・フェアリングコーチの指導を2006年まで受けた[7]
およそ3週間後にフィンランドで開催された国際ユース選手権[注釈 1]に参戦して優勝し[5]、翌年の大会(豪州・マウントブラー(英語版))でも優勝し[5]連覇を果たした。

1995年2月18日、フランスで開催された世界選手権大会に初出場した(12位[5])。

1996年3月7日にノルウェーで開催されたワールドカップで初めて表彰台(3位[5])に上った。

1997年7月に父親の昌昭さんを病気により54歳という若さで亡くし[1]競技引退も考えたが[8][6]、父の残した「成績よりも、よいすべりを」の言葉を胸に[9]、翌1998年の長野オリンピックに出場し日本人女子選手として冬季オリンピック史上初の金メダルを獲得した。決勝でのスコアは当時のオリンピック記録を塗り替える[5]好成績であった。さらに、決勝当日の年齢21歳244日は日本の女子金メダリストとしては冬季オリンピック史上最年少であり、2018年の平昌オリンピックスピードスケート佐藤綾乃が21歳73日で金メダルを獲得するまで記録として残った。
その約1か月後となる1998年3月9日にスウェーデンで開催されたワールドカップでは初優勝[5]している。

1999年2月17日、猪苗代で開催されたワールドカップで二回目の優勝[5]をし、同年4月、フジテレビジョンに入社。

その後は成績が低迷し、さらに左足首骨折という大けがをした[6]。しかし、怪我によって一時滑れなくなったことで、スキーをしたいという意欲が増す。2002年のソルトレイクシティオリンピックで、冬季オリンピック3大会連続出場となり、2大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得した[6]。冬季オリンピックで日本の女子選手が2つ目のメダルを獲得したのは史上初であった。

2003年11月に建設会社に勤める一般男性と結婚した[10]

2005年2月、酒に酔って暴行事件を起こした[11]。刑事事件としては起訴猶予処分となったものの自ら全日本スキー連盟に強化選手から外してもらうよう申し出をして、2005年10月に了承された[12]。その後、フリースタイルスキー・ワールドカップには個人参加で出場を続け、2006年のトリノオリンピックへ4大会連続となる冬季五輪に出場。しかし、エアーの着地失敗が響いて決勝15位に終わった[13]。同年3月に離婚している[10]

2006年から2007年にかけてのシーズンは、ワールドカップ等には出場せず腰の治療に専念した[14]。翌2007年9月、故障からの回復が認められて、強化C指定選手に認定された[15]2008年3月22日、全日本選手権に出場し、12年ぶり8度目の優勝を果たした[11][16]

2009年2月に行われたバンクーバーオリンピックのテスト大会は、航空券の手配ができずに欠場したが[17]、同月に、3年ぶりとなる日本国外のワールドカップに出場を果たした[18]
3月、世界選手権大会で自己最高位となる4位入賞[5][注釈 2]を果たす。

2010年2月のバンクーバーオリンピックでは、5大会連続で冬季五輪日本代表に選出。バンクーバー五輪本番では上村愛子村田愛里咲伊藤みきと共に決勝に進んだが、第2エアーで転倒してしまい結局19位に終わり、これが最後の冬季五輪出場となった[11][19][20]

上村愛子とは、1994-1995シーズンから2011-2012シーズンまでの長きにわたり切磋琢磨しながら世界大会の上位で活躍し合ってきた仲[21]であるが、FIS主催・公認の大会で二人が同時に表彰台に上った試合は、1995年国際ユース選手権(豪州・マウントブラー:里谷1位、上村2位[5])、1997年ヨーロッパカップ(スイスツェルマット:里谷2位、上村3位[5])、ならびに、2009年豪州・ニュージーランドカップ(豪州・ペリッシャー・ブルー(英語版):上村1位、里谷2位[5])の3回のみであり、共に参加、参戦した4回のオリンピック、4回の世界選手権(7戦)、ワールドカップ(14シーズン[注釈 3]・88戦[注釈 4])で、同時にメダルを獲得した試合は一度もなかった[5]

2013年1月に現役引退を発表した[22]。同年2月23日、福島県猪苗代町リステルパークで行われたW杯で、引退セレモニーが行われた[23]
戦績
オリンピック

オリンピック冬季大会成績開催日開催国開催地
(会場)種目決勝成績予選
成績優勝者
(国籍)備考(日本人成績等)
総合ターンエアータイム
1994年2月16日 
ノルウェーリレハンメル
(Kanthaugen Freestyle Arena(英語版))モーグル11位
23.18[24]10位
12.2[25]16位
5.40[25]7位
5.58[25]10位
23.32[25]Stine Lise HATTESTAD(ノルウェー語版)
ノルウェー)予選開催日は2月15日。
1998年2月11日 日本長野
(飯綱高原)モーグル1位
25.06[26]1位
13.9[27]5位
4.95[27]1位
6.21[27]11位
22.29[27]Tae SATOYA
( 日本)上村愛子7位。
予選開催日は2月8日[27]
2002年2月9日 アメリカ合衆国ソルトレークシティ
(Deer Valley(英語版))モーグル3位


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