里地里山
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この項目では、集落や人里に接した山林について説明しています。大相撲力士の里山については「里山浩作」をご覧ください。
里山の風景。東京都稲城市坂浜ヒノキ人工林のある里山

里山(さとやま)とは、集落、人里に隣接した結果、人間の影響を受けた生態系が存在するをいう。深山(みやま)の対義語。
「里山」という語

初めて文献に「里山」という単語が現れるのは、1759年6月に尾張藩が作成した文書「木曽御材木方」である。「村里家居近き山をさして里山と申候」と記述されている[1]。また、奈良県の吉野山地では、山を村落から近く標高が低い順に「サトヤマ」「ウチヤマ」「オクヤマ」「ダケ」と区分しており、「サトヤマ」に該当するのは集落の周囲の斜面にある畑や雑木林である[2]

現代に見られる里山の再評価に直接繋がる言論活動を開始した人物としては、京都大学農学部京都府立大学などの教官を務めた四手井綱英がいる。四手井は今日的な意味での「里山」という言葉の使い方を考案したと言われる[3]

また、里山という語の普及に大きな影響を与えた人物としては、四手井の他に写真家の今森光彦を挙げる意見もある[4]飯沢耕太郎は、1995年に今森が発表した写真集『里山物語』[注 1]によって、里山という語に具体的なイメージが与えられたとしている。

他に、市民の立場から1983年から「里山一斉動物調査」などの活動を行い、里山の語を普及するとともに実地体感や動物のフィールドサイン観察などを伝えた、大阪自然環境保全協会と指導した木下陸男がいる。
歴史

日本列島において、継続的に人間の手が入る森林が出現した時期は、少なくとも縄文時代まで遡ることができる。三内丸山遺跡の研究によって、この遺跡に起居していた縄文人集団が近隣の森に栽培種のクリウルシを植えて利用していたことが明らかになっている[5]

歴史時代に入るとともに、日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していくこととなる。最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇の6年(676年)には南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。都市近郊に残された里山(神戸市北区山田町、帝釈山より俯瞰)

さらに日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている[6]

江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、18世紀までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採できるものの大半は失われた。こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている[7]

すなわち、18世紀までの日本列島の里山は継続的に過剰利用の状態にあり(「はげ山」参照)、「持続可能な」利用が為されていたわけではない。こうした広範な森林破壊は木材供給の逼迫をもたらしただけでなく、山林火災の増加、台風被害の激甚化、河川氾濫の増加など様々な災厄を日本列島にもたらすことになった。

このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年寛文6年)以降、森林保護政策に乗り出し、伐採や流通を厳しく規制した。その結果、日本列島の森林資源は回復に転じ、里山の持続可能な利用が実現した。放置されアズマネザサに覆われた里山

しかし、近世の持続可能な里山利用は近代に入ると3度の危機に瀕した。最初の危機は明治維新前後で、旧体制の瓦解とともに木材の盗伐・乱伐が横行し、里山の森林が急激に失われた。東京帝国大学農科大学教授の志賀泰山(1894年)[8]によれば、森林面積のうち木に覆われている面積は30%で、残り70%は赭山禿峰(しゃざんとくほう)であった[9]。その後、社会の安定とともに里山の植生は一定の回復を見たものの、太平洋戦争が始まり物資が欠乏すると再び過度の伐採が行われ、各地に禿げ山が出現した。この原因は軍需物質として大木が次々に供出させられたとされる。戦中・戦後の乱伐からの回復は、1950年昭和25年)に始まる国土緑化運動の成果を待たなければならなかった[10]

そして、3度目の危機が現在まで続く里山の宅地化と里山の放置である。昭和30年代から始まった家庭用燃料の化石燃料が、昭和50年代には普及し尽くし、家庭用燃料としての木炭は、娯楽用途を除いてほぼ姿を消した。山間地の木質エネルギー生産現場からは、多くの収入と雇用が失なわれ、離農や過疎化が急速に進行[11]した。エネルギー生産の役割を失った薪炭林は、拡大造林により製材用の人工林へと姿を変えたり、不在村地主化した所有者により放置された。また、化学肥料の普及や使役家畜の消滅も里山の経済価値を失わせた。一方で農業と密接な関わりを持っているにもかかわらず、里山は農地と認められなかったため税負担が軽くなかった。こうして経済価値を失った里山は、高度成長期に入ると次々に宅地化されて消滅した。ニュータウンをはじめとする郊外の宅地化が、高度経済成長時代に都市に流入した労働力に住居を供給するため国を挙げて推進されたからである[12]。宅地化を免れた里山も、利用価値の殆どが失われたために放置され、人間の関与が失われたことによる植生の変化(極相林化や孟宗竹の侵入による竹林化(竹害)、不法投棄される粗大ゴミ産業廃棄物による汚染にさらされている。
利用
薪炭林

広葉樹林の場合:10年から20年ごとに根を残して伐採され、薪や木炭に利用された。残された根からは再び芽(萌芽)が出るので、再び10年から20年が経過すると同じようにして利用された。好んで植えられたのは木炭などに転用しやすいクヌギナラなどの落葉樹であった。
アカマツ林

アカマツは建材に利用するため、長期的に育成された。アカマツの枝やアカマツの下に生える低木は燃料となった。灰はカリウム肥料として田畑に入れられた。アカマツ林で獲れる松茸の多くは売却され、現金収入をもたらした。換金性の低いキノコ類や山野草は自家消費の食料となった。その他の大木も貴重な木材として生えている状態から1本単位で藩や代官に登録され、管理された。
塩木山

珍しい里山の利用法としては、製塩のための燃料の供給源が挙げられる。こうした里山は塩木山と呼ばれた。製塩は大量の燃料を必要とする(年間通して生産する場合、塩田の面積の75倍の広さの森林を全て燃料として1年で消費しなければならない)ため、製塩業にとって塩木山の確保は死活問題であった。記録では8世紀後半から東大寺や西大寺などの大寺院の荘園として塩木山が存在していることが知られている。近世になると製塩業向けの燃料としての薪販売は、特に山陽地方において盛んとなった。このようなケースでは、薪を生産するのは河川によって塩田と結ばれた山間地の村であった。山間地の村の住人が里山の木を薪に加工し、銀などと交換しており、里山は必ずしも村内の自給自足経済を満たすためだけに利用されていたわけではない。こうした製塩業向けの燃料供給は石炭が一般化する19世紀初頭まで続いたが、森林再生速度を超えた伐採により森林資源が逼迫し、争いになることもあった[13]。製塩業の他にもたたら製鉄用の燃料や陶磁器焼成の為の燃料として、里山の木は大量に消費された。
草山

ある山の樹木を意図的に皆伐し、山全体を草のみで覆ったものを草山と呼ぶ。近世の水田耕作では枯れ草が重要な肥料であった。村に必要な枯れ草を賄うために草山が設定され、樹木を生やさないように管理されていた。特定の水田に専用の小規模な草山を設定することもあり「田付草山」と呼ばれた[14]
多様な利用法

木材の供給源としてだけでなく、落ち葉や下生えは田畑の肥料(緑肥)、牛や豚などの家畜に与える飼葉に利用されていた。また農作業の合間に里山に入って薪やキノコを得ることは、近世の農民にとって現金収入を得る最も簡便な方法であった。緊急時の木材・現金供給源を兼ねた水源涵養林として意図的に森林の伐採を行わない里山もあった。


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