釈迦族
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「迦」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。紀元前500年の十六大国の領域

釈迦族(しゃかぞく、??kyaシャーキヤ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族やシャーキヤ族とも。仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが属していたことで有名である。

インドではサンスクリット語で ????? (??kya, シャーキヤ) 、パーリ語で s?kiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。

前6?前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキヤはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった[1]。(場所は現在のインドネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった[1]

シャーキヤ族は、政治形態としてはサンガを採用していた[1]。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという[1][2]
系統

伝説では、アーリヤ人クシャトリヤ王統に属すると言われる[1]

一説には、日種 (: s?ryava??a, : ?diccagotta) に属し、甘庶王(かんしょおう、オッカーカ)系といわれる[2][3]

漢書張騫伝の「塞王」について、顔師古による注は「即ち仏経に釈種と謂う所の者。塞・釈は声(発音)近く、もと一姓なるのみ。」とあり、塞(そく)と呼ばれる種族(サカ)と釈迦族がもとは同じ民族であったとしている。サンスクリット文法上は ??kya(シャーキヤ)を ?aka (シャカ(=サカの梵語形))の派生語とするのは自然であるが[注釈 1]、サカ族がインドに到達したのは紀元前2世紀で、仏陀の時代よりはるかに後であるという問題がある。

歴史家の中には、チベット・ビルマ系だと見なす人もいる[1]
系譜

釈迦族の家系は、経典によって内容に差異があるが、国訳大蔵経『仏本行集経』によると、釈迦族の始まりは、この地に稲田を開いた大地主と記述されている[4]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

「この賢劫の初め、地、建立しおわりて、一最尊、豪勝富貴の大首領人転輪王種あり。
名衆を集置して、すでに安置しおわる。
時に、諸々の大衆、地主にもうしていわく。
『我が大地主よ、まさに我らの為に、悪人を治罰し、良善を賞すべし。仁者、まさに稲田を分かって、我に与うべし。
我、おのおのこれに、種(う)え、種え終わりて、まさにおのおの割分して、仁者に奉輸すべし』と。
時に、彼の地主、大衆の請いを受け、すなわち為に法の如く、平によって検校し、悪しき者は治罰し、善き者は之を賞せり。
人、稲田を得て、おのおの守護を加え佃熟しおわりて後、分に随ってこれを受けぬ」
「時に、彼の大衆、是の如く集会、和合し、共に彼の仁者を推扶し、持して地主と為せり。
大衆の商量によりて挙げられしを以ての故に、彼を号して大衆平章(たいしゅうひょうしょう)と為しぬ。
また、彼の地主、諸々の大衆の為に、法の如く治化し、衆をして歓喜し、同心に愛楽し、共に和合するを得て、各々処分せしめたり。
ゆえに名けて王と為しぬ。
また、また、一切の稲田を守護し、熟すれば、衆人稲田の分を取るが故に、刹利王(せつりおう)と名づけぬ。
刹利王をば、名づけて田主(でんしゅ)となす。
汝ら、まさに知るべし。
この因縁をもって、劫の最初の時、大衆立つる所の王種は是なるを。」—仏本行集経 - 賢劫王種品・第三


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