釈 瓢斎(しゃく ひょうさい、1882年9月26日 - 1945年8月6日)は、日本の作家・新聞記者である。本名永井栄蔵[1]。別号として永井瓢斎がある[2]。 1882年(明治14年)9月26日[1]、島根県安来町西灘に生まれる。父親は永井彦衛門。永井家は雲伯で産出する砂鉄鋼を集出荷する鉄問屋であり、酒造業も営む地域の素封家であった。しかし、瓢斎が生まれた頃には、家運は下向き気味となっていた。松江中学校に入学したのち、万寿寺
経歴
1913年(大正2年)、大阪朝日新聞社に入社[2]。社会部配属となる。1918年(大正8年)に京都支局長となる。京都支局長時代には飯田?隠に師事し、居士の印可を得る。以来、釈瓢斎を名乗るようになり、洋服の上に袈裟をかけて出勤するようになった。1925年(大正14年)に本社配属、論説委員となる。1928年(昭和3年)に特派員としてドイツに滞留し、この間デッサンを学ぶ。翌年に帰国し、『天声人語』を担当する。ここにしばしば自作の俳句を載せていたことを契機として、1930年(昭和5年)に俳句雑誌『趣味』を創刊する[3]。『安来市誌』はこのことについて、「専門俳人たちが、低俗安易につながるものとして、趣味という言葉を嫌ったにもかかわらず」、瓢斎が自らの雑誌に『趣味』の題をつけたことを、彼の反骨精神のあらわれであると論じている[5]。また、俳画もものし、冨田溪仙らと親交を結んだ。1936年(昭和11年)に新聞社を定年退職。この時期売りに出されていた落柿舎を入手、その維持管理につとめた。朝日新聞退職後は『中外日報』などに記事を寄稿した。また、太平洋戦争の開戦にあたって興亜同盟の結成に寄与し、理事として大アジア主義を鼓吹した。1945年(昭和24年)8月5日、岡本町で空襲に遭い、焼夷弾の直撃を受ける。翌日未明死去[3]。
出典^ a b 20世紀日本人名事典『釈 瓢斎』 - コトバンク
^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『永井瓢斎』 - コトバンク
^ a b c d e 木幡吹月「永井瓢斎」『明治百年島根の百傑』島根県教育委員会、1968年、445-450頁。
^ a b 内外社 編『綜合ヂャーナリズム講座 VII』内外社、1931年、385-386頁。
^ 安来市誌編さん委員会 編『安来市誌』安来市、1970年、645頁。