だいご としろう
醍醐 敏郎
1951年、第4回全日本柔道選手権大会にて優勝
生誕 (1926-01-02) 1926年1月2日
千葉県安房郡船形町
(現・館山市)
死没 (2021-10-10) 2021年10月10日(95歳没)
東京都
死因病死(誤嚥性肺炎)
国籍 日本
出身校東京高等師範学校
職業柔道家、警察官
著名な実績全日本柔道選手権大会優勝
全日本東西対抗柔道大会
醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日[注釈 1] - 2021年10月10日)は、日本の柔道家(講道館十段)。
戦後の柔道界を牽引した1人であり、同時期に活躍した松本安市、吉松義彦、石川隆彦、夏井昇吉らと繰り広げた数々の名勝負は、現在も柔道界の歴史に刻まれる。講道館研修員や警察大学校師範として後進の指導にも当たり、モントリオール五輪やロサンゼルス五輪では男子柔道競技の監督を務めた。2006年には講道館より事実上の最高段位である10段に列せられている。 1925年の年末12月26日、千葉県安房郡船形町(現・館山市)仲宿で米穀や酒類を販売する商店を営む、醍醐武兵衛の4男として出生[1]。醍醐家は江戸時代より代々捕鯨を生業とする家柄で、初代・新兵衛はかつて千葉県の七聖人に数えられる程の腕前であった[1]。1938年に船形尋常高等小学校を卒業して県立安房中学校(現・県立安房高校)に入学するも、部活動では水泳を選択し[2]、当初は柔道には授業で触れる程度であった[1]。中耳炎を患って1年生の夏休みに水泳部を休んでいると、身長179cm・体重85kgという大柄な体躯を見込まれて柔道部に勧誘された事が、柔の道に入るきっかけとなった[2][注釈 2]。相撲で県大会を制した醍醐 柔道部では師範の高木一8段に師事し、厳しい指導の元で醍醐は実力を磨き上げていった[1]。醍醐本人は「引っ込み思案の性格だったが、稽古で引っ叩かれても辛抱する心はあった。まぁ粘りはあったのかな」と振り返る[2]。1940年2月付で講道館へ入門し初段審査に合格したが年齢が若過ぎたため昇段保留となり、翌41年1月にようやく黒帯を許された[1]。選手としては3年次の1940年県大会(団体戦)で八将として出場、醍醐はこの大会で全勝する活躍を見せてチームの優勝に貢献し[1]、以後はその嬉しさから一層熱心に稽古に打ち込んだという[2]。 一方、相撲部の試合に駆り出された醍醐は千葉県大会で団体優勝、個人戦準優勝の成績を残し、全国中等学校相撲大会への出場権を得た[1]。団体戦で安房中学校は、高知県代表で前年優勝校の旧制高知農業学校(現・県立高知農業高校)を初戦で降すなどし、青森県代表の青森県農学校(現・県立三本木農業高校)に敗れるもベスト16入りを果たすなど勇名を馳せて、また、この団体戦で4戦全勝した醍醐は個人戦への出場権を得て2回戦を勝ち抜いた[1][注釈 3]。これら一連の活躍が立浪一門の目に留まり、自宅や学校にまで醍醐の勧誘に訪れる騒動に。実際に後援会ができ、“房州灘”という四股名まで用意される程だったという[1]。 同時に醍醐は柔道で1942年2月には講道館2段位、同年9月には3段位を許されるなど当時としては異例のスピード昇段を果たすと、柔道をより専門的に学びたいという意欲が湧き[1]、また安房中学校の先輩の多くが東京高等師範学校に進学していた事もあって、同校体育科2部(柔道専攻)へ進む決意をした[2]。
経歴
生い立ち
学生生活と太平洋戦争東京高師時代の恩師・永岡(左)には後々まで師事した
1945年2月に徴兵検査で甲種合格となり、7月には静岡から召集され二等兵として千葉県佐倉の陸軍歩兵333連隊に入隊、程なくして郷里・館山の海軍砲術学校へ移動となり、アメリカ軍の本土上陸に備えた[1]。