この項目では、京都府京都市の寺院について説明しています。徳島県徳島市の寺院については「醍醐寺 (徳島市)」をご覧ください。
醍醐寺
金堂(国宝)
所在地京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度57分5.4秒 東経135度49分18.4秒 / 北緯34.951500度 東経135.821778度 / 34.951500; 135.821778
醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山となる寺院。山号は醍醐山(深雪山とも)。本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵している[1]。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
札所本尊真言(准胝観音):おん しゃれい それい そんでい そわか
ご詠歌(上醍醐):逆縁(ぎゃくえん)ももらさで救う願(がん)なれば 准胝堂はたのもしきかな 平安時代初期の貞観16年(874年)、空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」[注釈 1]と命名した。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。 醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。歴代座主が理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現在の一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から選ばれるなど大いに栄えていた。 その後、応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていた。特に応仁の乱の最中だった室町時代の文明元年(1469年)10月には、周辺集落である御境内の村民たちが寺に納める年貢を半分にする半済を要求する目的の暴動を起こした際には、武装した僧兵たちが弾圧を行い、同月10日(11月13日)には首謀者たちを呪殺する目的での大規模な護摩祈祷が行われるなど、人心の荒廃も進行していった[2]。しかし、安土桃山時代に入り、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなどし、伽藍が復興され始め、慶長3年(1598年)には「醍醐の花見」が盛大に行われた。 続いて、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長5年(1600年)には秀吉の代から行われていた金堂の移築工事が完成、慶長10年(1605年)には西大門の再建、慶長11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が次々と行われた。豊臣政権下での醍醐寺については、醍醐寺座主であった義演が著した『義演准后日記』に詳しい。 明治期の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりする中で、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けている。 1935年(昭和10年)、霊宝館が開館した。1939年(昭和14年)8月、上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵、西国三十三所第11番札所の准胝堂が焼失するが、1968年(昭和43年)5月に准胝堂が再建された。 1995年(平成7年)1月、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の影響で、五重塔・金堂などの漆喰が剥がれた。1997年(平成9年)9月、真如三昧耶堂[注釈 2]が建立された[3]。 2008年(平成20年)8月24日、落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼した。焼失した准胝堂にあった西国三十三所札所は現在、下醍醐の観音堂に仮に移されている。 下醍醐と上醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩では1時間を要する。 本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がっている。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失と再建を繰り返しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像としては現存最古のものである。
歴史
伽藍五重塔(国宝)
下醍醐
金堂(国宝)入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期の建立。豊臣秀吉の発願により紀伊から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)、秀頼の代になって落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀伊国有田郡湯浅(現在の和歌山県有田郡湯浅町)の満願寺[注釈 3]本堂であった。