醍醐天皇
醍醐天皇像(醍醐寺三宝院蔵)
第60代天皇
在位期間
897年8月4日 - 930年10月16日
寛平9年7月3日 - 延長8年9月22日
即位礼897年8月14日(寛平9年7月13日)
大嘗祭897年12月17日(寛平9年11月20日)
元号寛平
昌泰
延喜
延長
時代平安時代
先代宇多天皇
次代朱雀天皇
誕生885年2月6日(元慶9年1月18日)
崩御930年10月23日(延長8年9月29日)
右近衛府
大喪儀930年11月3日(延長8年10月10日)
陵所後山科陵
追号醍醐天皇
諱維城、敦仁
別称延喜帝
元服897年8月4日(寛平9年7月3日)
父親宇多天皇
母親藤原胤子
中宮藤原穏子
女御源和子
藤原和香子
醍醐天皇(だいごてんのう、885年2月6日〈元慶9年1月18日〉- 930年10月23日〈延長8年9月29日〉[1])は、日本の第60代天皇(在位:897年8月4日〈寛平9年7月3日〉- 930年10月16日〈延長8年9月22日〉)。諱は維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)。
現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下ののちに敦仁親王に改めた[2]。
宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。 元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年12月28日(890年1月22日)親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日立太子。この際に、父宇多天皇から剣を下賜されたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれている。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。 しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手している。醍醐天皇宸筆 白居易詩巻(部分) 天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。 天皇ははじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の長女藤原仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、延喜23年(923年)には親王も21歳で早世する[3]。そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。 しかし延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きると天皇自身は難を逃れたものの、心労が重なったこともあり、これ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位する。譲位に伴って、後院である朱雀院への遷座が決定されるが、病状の悪化に伴って27日に急遽内裏から右近衛府の大将曹司に移される。28日は急遽宇多法皇の見舞いを受けるが病状は回復せず、翌29日(譲位から7日後)に出家すると同日未刻に崩御した[4]。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。 出典:『公卿補任』 年月日(西暦)太政大臣左大臣右大臣内大臣大納言権大納言中納言権中納言参議
来歴
在位中の重臣一覧在位中の重臣一覧
寛平9年7月13日
(897年8月14日)藤原時平源光・菅原道真藤原高藤・藤原国経藤原有実・源直・源貞恒・藤原有穂・源湛・源希・源昇・十世王
昌泰2年2月14日
(899年3月29日)藤原時平菅原道真藤原高藤・源光藤原国経・源希藤原有実・源直・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇
昌泰2年2月24日
(899年4月8日)藤原時平菅原道真藤原高藤・源光藤原国経・源希藤原有実・源直・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・藤原定国
昌泰2年12月26日
(900年1月30日)藤原時平菅原道真藤原高藤・源光藤原国経・源希藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・藤原定国
昌泰2年閏12月5日
[臣 1]藤原時平菅原道真藤原高藤・源光藤原国経・源希・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇
昌泰3年正月28日
(900年3月2日)藤原時平菅原道真藤原高藤源光藤原国経・源希・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・在原友于・藤原忠平
昌泰3年2月20日
(900年3月23日)藤原時平菅原道真藤原高藤源光藤原国経・源希・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・在原友于・藤原清経
昌泰3年3月12日
(900年4月13日)藤原時平菅原道真源光藤原国経・源希・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・在原友于・藤原清経
昌泰4年正月25日
(901年2月16日)藤原時平源光藤原国経・源希・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・在原友于・藤原清経
延喜2年正月19日
(902年3月1日)藤原時平源光藤原国経・藤原定国藤原有実・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛・源昇・在原友于・藤原清経
延喜2年正月26日
(902年3月8日)藤原時平源光藤原国経・藤原定国源貞恒・藤原有穂藤原有実・十世王・源湛・源昇・在原友于・藤原清経・平惟範・紀長谷雄