酒折宮
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この項目では、山梨県にある神社について説明しています。備前国にあった神社については「岡山神社」をご覧ください。

酒折宮

鳥居
所在地山梨県甲府市酒折3-1-13
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分39.7秒 東経138度35分47.7秒 / 北緯35.661028度 東経138.596583度 / 35.661028; 138.596583 (酒折宮)座標: 北緯35度39分39.7秒 東経138度35分47.7秒 / 北緯35.661028度 東経138.596583度 / 35.661028; 138.596583 (酒折宮)
主祭神日本武尊
社格等旧村社
創建不詳
本殿の様式神明造
例祭10月17日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}酒折宮
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酒折宮(さかおりみや・さかおりのみや)は、山梨県甲府市酒折にある神社旧社格村社
概要

古事記』・『日本書紀』に記載される日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつとされる神社である(ただし後述のように異説もある)。また、その説話にちなみ連歌発祥の地とされている[1][2]

山梨県内の神社で『古事記』・『日本書紀』に記述がある神社は酒折宮のみである[3]。また、酒折夜雨(酒折宮の夜の雨)は甲府藩主・柳沢吉里によって甲斐八景の1つに選ばれた[4]
祭神

日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 倭健命・ヤマトタケル

歴史
記紀の酒折宮伝承.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに古事記/中卷の原文があります。
行宮伝承

『古事記』・『日本書紀』(以下「記紀」)には、ヤマトタケルの東征伝承が記されている。ヤマトタケルの東征は『古事記』では尾張から相模上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったとしている[5]。一方、『日本書紀』では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐酒折宮を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったとしている[6]

帰路、甲斐国(現 山梨県)酒折の地に立ち寄って営んだ行宮が当社に因むとされている。行在中に尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言したため、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したと伝える[7]

記紀に記されるヤマトタケルの東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっている。また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、酒折宮も「」に関係する祭祀を司っていた神社であると考えられている。
連歌伝承
連歌発祥の由来となった連歌の石碑(2010年6月撮影)

また記紀には、滞在中のある夜、尊が「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」[8]意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか

と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」意味:指折り数えてみますと九泊十日かかりました

と答歌[9]、尊がこの老人の機知に感嘆した[10]伝えを載せ、『古事記』には彼を東国造に任命したと記載されている[9]

酒折宮伝承はこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥として位置づけられ、そこから連歌発祥の地として多くの学者文学者が訪れる場所になった[9]
概史御室山(月見山)

当社は上記の酒折行宮を称しているが、その比定地には異説もある[11]

当社はもと御室山(通称 月見山または酒折山北緯35度40分1.0秒 東経138度35分59.5秒)の中腹、現在の古天神の場所に鎮座しており、のち現在地に遷したと伝える。御室山の山中・山麓には多くの古墳・遺跡が残っており、古来から信仰されていた様子がうかがわれる。しかしながら、当社に関する史料はほとんど残っておらず、伝承の酒折宮との関係性も定かではない[12]

酒折宮由来書によれば、武田氏滅亡後の織田氏の時代にそれまでの社領200石を取り上げられ、神官が苦しさを嘆いた様子が記されている(その後社領安堵があったかは不明)[12]

江戸時代に『甲斐国志』をはじめ現在の酒折宮を記紀に記される「酒折宮」に比定する認識が広まり、連歌発祥の地としても注目された。甲斐における名所の1つとして多くの文人らが来訪し、貞享3年(1686年)には俳人大淀三千風が来訪しているほか、『甲斐叢書』など地誌類においても記録されている。また、絵画作品では土佐光起『酒折宮連歌図』などの作品が描かれて、歌川広重甲州日記』においてもスケッチが記されている。

明治初年(19世紀中葉から後葉)に近代社格制度において村社に列した。
酒折宮伝承の解釈明治44年(1911年)頃撮影の酒折宮。この社殿は大正6年(1917年)に焼失した。本居宣長撰文による平田篤胤書の酒折宮寿詞(2010年6月撮影)

酒折宮に関するヤマトタケル伝承は、同じく記紀において雄略天皇期から奈良時代に甲斐国から朝廷に駿馬の貢馬が行われていたとする甲斐の黒駒伝承と並び、古代甲斐と畿内政権との関わりを示すものとして重要視されている。戦後には磯貝正義原秀三郎大隅清陽宝賀寿男らによる考古・文献両面からの検討が行われている。

古墳時代から古代にかけての甲斐国において、考古学的には甲府盆地南端の曽根丘陵において弥生後期段階から東海地方の文化的影響を受け、4世紀中頃から後半代には畿内の影響を受けた前方後円墳である大丸山古墳甲斐銚子塚古墳が出現する。その後5世紀には馬具を伴うかんかん塚古墳が築造されており後続勢力が存在しているが曽根丘陵における勢力はしだいに衰え、盆地各地に中小規模の古墳が築造される。

古代には盆地東西に勢力が出現し、甲斐国・甲斐四郡の成立においては盆地西部には渡来人が集住した巨摩郡が立評され、盆地東部には国府所在地である山梨・八代郡が成立した。現在の酒折地域を含む盆地北縁地域は巨摩郡・山梨両郡の境界に位置している。

酒折宮伝承の歴史的背景はこうした考古学的背景を前提に研究が展開されている。磯貝は古代甲斐国が畿内王権に服属していった過程を甲斐銚子塚古墳が築造された4世紀後半、かんかん塚古墳の築造・甲斐の黒駒伝承を記した雄略朝期の6世紀、さらに7世紀の大化の改新を経た段階的な服属過程を提唱した。そして、酒折宮伝承は4世紀後半以降の歴史的背景を反映し、ヤマトタケルの東征・酒折宮伝承は5世紀後半の『宋書倭国伝』に見られる毛人の五十五国平定を反映した可能性を指摘している。磯貝は5世紀後半段階で甲斐はすでに畿内政権の服従下にあり、ヤマトタケルの東征における甲斐は畿内王権の東国平定に際した前進基地であったと位置づけている。また、磯貝は現在の酒折宮を伝承地とし、記紀において記される「酒折宮」に比定する点については慎重視している。


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