酒呑童子
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この項目では、大江山の鬼について説明しています。大分県の伝承については「酒呑童子山」を、その他の用法については「酒呑童子 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「シュテンドウジ」はこの項目へ転送されています。お笑いコンビについては「シュテンドウジ (お笑いコンビ)」をご覧ください。

「大江山酒呑童子」はこの項目へ転送されています。1960年の映画については「大江山酒天童子」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

酒呑童子

酒?童子
酒呑童子の生首が源頼光を襲う、の図―小村雪岱 (1927年)による挿絵

酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国丹後国の境にある大江山、または山城国と丹波国の境にある大枝老の坂)(共に京都府内)に住んでいたと伝わるの頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されている。また源氏所縁の兵庫県川西市の多田神社が所蔵する安綱銘を持つ太刀「鬼切丸」も酒呑童子を退治した伝承を持っている[1]
諸本

諸本は大別すると2種類あり、童子の住処を丹波国大江山とする「大江山系」と、それを近江国伊吹山とする「伊吹山系」に分かれるとされる。ただこの分類法には異論・慎重論もある[2]

最古の逸翁美術館所蔵本『大江山絵詞』や、江戸時代の『御伽草子』版本(渋川本)「酒?童子」が属するのが「大江山系」、サントリー美術館蔵『酒伝童子絵巻』が「伊吹山系」に属する。高橋昌明の場合、2分類を「逸本系」「サ本系」と呼んでいる[3][4]

最も古い稿本は『大江山絵詞』(『大江山酒天童子絵巻』。南北朝後期から室町初期頃。逸翁美術館所蔵)のものとされている[5]。これは、下総香取神社の大宮司家旧蔵本で、従来よりの通称として「香取本」と呼ばれている[6]重要文化財。綴りが「酒天童子」である[5]。南北朝時代?室町初期、あるいは更に古い成立という考察もあり[4]、格段と時代が古いので「原本」とすらみなせるとも[7]。欠損部分が多いが、冒頭は陽明文庫本によって補完でき、結末は本地譚であったことが断片などより判明している[4]

サントリー美術館蔵『酒伝童子絵巻』(因幡池田家旧蔵、古法眼狩野元信筆) は、室町時代成立で、最古の稿本に比肩して資料性の高いものとされる[8]

この他、江戸時代の絵巻は、多数伝来する[9]。御伽草子の版本のテキストは、明治の頃よりの編本が存在している[10]
伝説の概要『大江山絵巻(絵詞)』?逸翁美術館所蔵

『大江山絵詞』(大江山絵巻)によるあらすじは次のとおりである。

一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光藤原保昌らを征伐に向わせた(あるいは正歴元年(990年)に源頼光に勅宣を出した[11])。頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山[5])に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて以来、そこには居られなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒を振る舞い、に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分したのちに宇治平等院宝蔵に納められた[5]
御伽草子版大江山の酒呑童子と源頼光主従 (歌川芳艶 江戸時代)

御伽草子版としては、渋川清右衛門が出版した御伽文庫版(1720年)が江戸時代に広く伝搬した。以下、その御伽文庫(渋川刊)より、梗概を説明する[12][13]

京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏源頼光嵯峨源氏渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時碓井貞光卜部季武)により討伐隊が結成され、討伐に向かった。

この稿本では、武者たちみずから戦術を練り、山伏姿に扮することも考案し、甲冑・武器(ここではそれらの名前が挙げられる)を笈に隠すことにする。また、一行がまず出会って鬼共の内部事情を教わる洗濯女は、ここでは老婆でなく年齢17、8の女性で、花園の中納言の一人娘である[14]

一行は山伏(修行僧)と偽って酒呑童子の饗応を受け、童子は自分の身の上を語りだす。ここでは童子は「本国は越後の者」と明かし、比叡山にいたが伝教大師(既出。最澄)によってそこを追われ、この峰(大江山)に住んだが、今度は弘法大師に追放された。しかし空海高野山で亡くなった後、舞戻ってきた、と語りだす[15][注 1]

頼光らは、さらに姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、神よりもらった「神便鬼毒酒」[注 2]という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ[17]、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いた。

酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった[19]
酒呑童子の配下

酒呑童子の配下は茨木童子がおり、そして四天王として星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子の四人の鬼がいる[注 3]


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