凡例酒井 忠重
時代江戸時代前期
生誕慶長3年(1598年)[1]
死没寛文6年9月24日(1666年10月22日)[1]
別名於百、九八郎、右京、巳斎[1][2]
戒名光岳院殿鏡誉忠重大居士
光岳院鏡誉宗円[3]
墓所西福寺、清浄光寺[4][1]
官位従五位下長門守[1]
幕府江戸幕府 旗本
主君徳川秀忠、家光、家綱
氏族酒井氏
父母父:酒井家次、養父:酒井忠次[1][2]
兄弟忠勝、直次、忠重、勝吉
酒井 忠重(さかい ただしげ)は、江戸時代前期の旗本。同国庄内藩主酒井氏の傍系にあたり、出羽国村山郡白岩領主を務めた。 徳川家康の重臣で下総臼井藩主だった酒井家次の三男として生まれる。『寛永諸家系図伝』は忠重4歳の時に亡祖父・酒井忠次の養子になったとしている。大坂の陣が終結した直後の元和元年(1615年)前将軍徳川家康と将軍徳川秀忠に初めて謁見し、小姓として出仕。元和3年(1617年)従五位下長門守に叙される[1][7][2]。 元和8年(1622年)出羽山形藩主の最上氏が改易となった。父の遺跡を継承していた兄の酒井忠勝が加増転封を受けて出羽庄内藩主となるが、同時に忠重にも同国村山郡内に4,000石を与えられる。石高は寛永2年(1625年)には4,000石を加増され、併せて8,000石を領した。この白岩領は村山郡のうち3,000石余を擁する白岩村を中心とする留場・田代・幸生・宮内(以上、現寒河江市域)・熊野・石田・柳沢・海味・間沢・綱取・岩根沢・水沢・本道寺・砂子関・月山沢・大井沢(以上、現西川町域)の17ヶ村で、寒河江川左岸の山間部に位置する[8][9][5]。 寛永10年(1633年)1月、白岩領民は巡見使の分部光信に対し、忠重の白岩領統治に対する非法を訴えた。そしてこれが容れられないと、同年10月には二十三ヶ条の訴状「白岩目安」を江戸町奉行所に越訴したのである。それによれば忠重は、 のだという。一説には同時に領内では百姓一揆が蜂起し、陣屋を焼き払って国家老を討ち取ったともいうが定かではない[10][9]。寛永12年(1635年)忠重は兄の鶴ヶ岡城下の屋敷に移って沙汰を待ったが、寛永15年(1638年)幕府は白岩領8,000石を収公し、忠重に改めて8,000俵の蔵米知行を与えた。天領となった白岩領には代官が設置されたが、忠重の俸禄は引き続き白岩領の年貢米が用いられたものと思われる[11][9]。 これに先立ち忠重は、弟で5,000石の旗本だった酒井了次との折り合いが悪く、兄の忠勝に讒言して了次を高野山に追放させている[12]。 白岩領を離れた忠重だったが、引き続き庄内藩内に居住した。兄で庄内藩主の酒井忠勝は忠重を厚遇し、幕府から支給される知行米とは別に合力米を与え、藩政についてもしばしば相談にあたって重用した[13]。 忠重は藩士たちに金子の高利貸付を行っていたが、その返済に困って窮乏するようになった藩士らの一部が藩主忠勝に愁訴した。しかし交渉は決裂し、反駁を遺憾とした忠勝はこれらの藩士を僻地へと左遷してしまった。このため正保2年(1645年)藩家老高力一方
略歴
白岩領主
白岩一揆詳細は「白岩一揆」を参照
領民に種籾を高利で貸し付けた
領民に米や酒を高値で強引に売りつけた
領民から綿花・麻・漆といった生産物を不当に廉価で買い取った
荒地などの未管理地や武家屋敷や寺地など、領民に無関係な土地にまで年貢を賦課した
頻繁に徴用を行い、あるいはその代銭を徴収した
百姓の女房を強制的に陣屋へと召し上げた
上記の暴政の結果、餓死者や身売りした者が続出し、村が立ち行かなくなった
「長門守一件」
正保4年(1647年)忠重の庇護者であった酒井忠勝が死去し、その家督は忠勝嫡男の酒井忠当が継承した。忠当は忠勝生前より反忠重の諸士に擁せられていたこともあり、忠重の藩政への影響力は低下した。慶安元年(1648年)には藩士毛利長兵衛が藩庁へ、忠重から脅迫を受けたがため高力一方一派の追い落としに参画していた旨を自白している[16]。
承応元年(1652年)忠重は幕府老中の酒井忠勝・阿部忠秋に、自身にあるべき亡忠勝からの分与2万両が与えられていないと訴え出た。忠当は松平信綱と相談して問題が長引く事を忌み、忠重の要求通りの金子を与えた上で庄内藩酒井家から義絶することで同意に至った[17][1]。