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出典検索?: "酒井忠邦"
凡例酒井 忠邦
時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕嘉永7年1月15日(1854年2月12日)
死没明治12年(1879年)3月25日
改名直之助(幼名)→忠邦
別名班蔵(通称)、裕斎(号)
墓所東京都台東区谷中の谷中霊園
官位従四位下、侍従、雅楽頭
贈従三位
藩播磨姫路藩主→姫路藩知事
氏族雅楽頭酒井家
父母父:酒井忠恒、養父:酒井忠惇
兄弟板倉勝全、忠強、忠彰、忠邦
妻正室:鏐子(酒井忠顕の長女)
子忠興、清子(前田利定夫人)
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酒井 忠邦(さかい ただくに)は、播磨姫路藩の第10代(最後の)藩主。雅楽頭系酒井家23代当主。 嘉永7年(1854年)正月15日、上野伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸の伊勢崎藩邸で生まれる。先代姫路藩主の酒井忠惇が将軍・徳川慶喜に従ってあくまで佐幕派の立場を貫いて江戸まで赴いたことで、姫路藩は朝敵とみなされた。このため慶応4年(1868年)5月2日、忠惇は強制隠居となって一族の忠邦が跡を継ぐこととなった[1]。忠邦は新政府に与することを明確にするため、新政府に対して15万両の献金や旧幕府派の家臣の大量処分(戊辰の獄)を行なっている。明治元年11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出[2]、版籍奉還実施により知藩事となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官されると、忠邦は東京へ出て、慶應義塾に入学した。同年12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国した。 明治12年(1879年)3月25日、26歳で死去した。長男の忠興の誕生は忠邦の死から2か月余り後の同年6月6日であり、酒井家当主の座には忠邦正室鏐子の父・忠顕の未亡人である文子が一時的に就き、忠興が満8歳になるまでその地位にあった。
生涯
略歴
1854年(安政元年)、伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸に生まれる。
1868年(明治元年)、酒井忠惇が強制隠居となり家督を継ぐ。
版籍奉還により知藩事となる。
1871年(明治4年)、廃藩置県により知藩事職を免官となる。
1879年(明治12年)3月25日、死去。
脚注^ 姫路藩酒井家は伊勢崎藩酒井家にとって宗家にあたるだけでなく、忠邦の兄たちとの間に姻戚関係もあった。酒井文子#系図を参照。
^ ⇒薩長土肥の4藩主が版籍奉還を上奏 (明治2年=1869年3月2日) 1月20日
外部リンク
⇒長谷川君父子?髪碑語釈
表
話
編
歴
酒井雅楽頭家第23代当主(1868年 - 1879年)
宗家
広親
家忠
信親
家次
清秀
正親
重忠
忠世
忠行
忠清
忠挙
忠相
親愛
親本
忠恭
忠以
忠道
忠実
忠学
忠宝
忠顕
忠績
忠惇
忠邦
文子
忠興
忠正
忠元
忠紀
忠輝
別家
忠利
忠勝
忠直
忠隆
忠囿
忠音
忠存
忠用
忠与
忠貫
忠進
忠順
忠義
忠氏
忠禄(再襲)
忠道
忠克
忠博
忠和
分家・支流
忠能系
忠能
忠佳
忠和
忠善
忠寛系
忠寛
忠告
忠温
忠哲
忠寧
忠良