酒井忠清
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 凡例酒井 忠清
時代江戸時代前期
生誕寛永元年10月19日1624年11月29日
死没延宝9年5月19日1681年7月4日
改名熊之助(幼名)→忠清
別名与四郎(通称)、下馬将軍
戒名大昌院殿従四品前羽林次将長得源成大居士
墓所群馬県前橋市紅雲町龍海院
官位従五位下河内守従四位下左近衛権少将雅楽頭
幕府江戸幕府奏者番老中首座→大老
主君徳川家光家綱綱吉
上野厩橋藩
氏族酒井氏
父母父:酒井忠行、母:菊姫(松平定勝の娘)
兄弟忠清、忠能
妻正室:鶴姫(松平定綱の娘)
継室:清岸院(姉小路公景の娘)
忠挙忠寛、亀姫(藤堂高久正室)、松姫(松平頼常正室)、長姫(水野勝種正室)、紀伊姫(中川久通正室)、奈阿姫(加藤泰恒継室)、彦姫(松平信庸正室)
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酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名江戸幕府老中大老上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家9代。第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康秀忠家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。下馬将軍。
生涯
出生から老中時代

寛永元年(1624年)10月19日、酒井忠行の長男(嫡出長子)として酒井家江戸屋敷に生まれる[1]。幼少期は不明であるが、酒井家江戸屋敷で育てられたと考えられている[2]

寛永7年(1630年)1月26日に将軍・家光が忠清の祖父・忠世邸に渡御しており、忠清も初御目見して金馬代を献上し、家光から来国光脇差を与えられている[2]。『東武実録』によれば、さらに1月29日には大御所秀忠が同じく忠世邸に渡御し、このときも忠清が初御目見し太刀馬代を献上し、国俊の脇差を与えられている[2]。寛永9年(1632年)12月1日には江戸城に初登営し、弟の忠能とともに将軍家光に謁見している[2]

寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世、同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する[2]。翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され、同日には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された[2]

寛永15年(1638年)に出仕し、従五位下河内守に任じられる。雅楽頭家嫡流として父の忠行が務めていた奏者番を命じられ、武家故実を習得して殿中儀礼の諸役を務める。この年には忠能と共に上野へ初入国をしている。なお、同年には土井利勝酒井忠勝が大事の折の登城を命じられ、これが後の大老の起こりとされる。

寛永18年(1641年)には3代将軍・徳川家光に嫡子・家綱が誕生。忠清は家光付きの本丸付家臣であり、幼少の家綱との接触は儀礼を通じてのみであったが、忠能は家綱付の家臣団に加わっている。正保元年(1644年)12月には松平定綱の娘・鶴姫と婚礼、慶安元年(1648年)には長男の忠明が生まれるが、鶴姫は慶安3年(1650年)に死去。慶安4年(1651年)4月には家光が死去し、8月には家綱が将軍宣下を受ける。大老・酒井忠勝、老中松平信綱や後見の保科正之、家綱付家臣団の松平乗寿らに補佐された家綱政権が成立し、忠清は引き続き奏者番を務め、10月には左近衛権少将へ任官し、雅楽頭へ改名を命じられる。
大老職就任から晩年

家光の死後には西の丸老中が本丸老中へ吸収され、承応2年(1653年)6月には忠清も老中に就任し、諸役と兼任する。忠清は就任と同時に老中首座として松平信綱、松平乗寿、阿部忠秋と共に4人連署体制を構成するが、翌3年(1654年)には乗寿が死去し、万治元年(1658年)閏12月29日稲葉正則が加えられるまでは3人体制となる。明暦元年(1655年)、池田光政から光政の娘ふきと榊原政房の縁談について相談を持ちかけられている[3]寛文4年(1664年)には一般奉書の加判を免じられており、寛文6年(1666年2月2日諸国山川掟を発する1人となり、3月26日には老中奉書への加判も免じられ、大老職に就任する。保科正之(1673没)や阿部忠秋(1675没)が没すると権力が集中し、新たに久世広之土屋数直板倉重矩を加えた老中達と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令(既に保科正之主導により1651年、大名、旗本に口頭では伝えられていた)や、陸奥仙台藩62万石の伊達家で生じた伊達騒動(寛文事件)や、延宝年間に越後高田藩で生じた越後騒動などのお家騒動の裁定に関わった。

延宝8年(1680年)1月、上総久留里2万石を加増されて15万石となり、忠行時代の家格に復する。同年5月には家綱が死去し、8月には家綱の異母弟・綱吉が将軍宣下を受ける。12月9日には病気療養を命じられ、大老職を解任される。

翌延宝9年(1681年)2月27日に隠居し、5月19日に死去。享年58(満56歳没)。遺体は龍海院(現在の群馬県前橋市)に葬られた。戸田茂睡『御当代記』によると、綱吉は越後騒動の再裁定を行い、高田藩を改易しようとしたため忠清は反対したが、綱吉は取り合わなかったという(忠清死後の6月21日に再裁定を行い、6月26日改易)。
人物
下馬将軍

忠清は鎌倉時代執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は寛永13年(1636年)に江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが、『老子語録』、『見聞随筆』などの史料に窺える。また戸田茂睡の執筆した『御当代記』にも、忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある。


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