凡例酒井 忠勝
酒井忠勝像(酒井家蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正15年6月16日(1587年7月21日)
死没寛文2年7月12日(1662年8月25日)[1]
別名与七郎(幼名)→忠勝
戒名空印寺殿傑伝長英大居士
墓所福井県小浜市小浜男山の空印寺
官位従五位下、従四位上、讃岐守、左近衛権少将
幕府江戸幕府老中、大老
主君徳川秀忠→家光→家綱
藩武蔵深谷藩主→川越藩主→若狭小浜藩主
氏族雅楽頭酒井家
父母父:酒井忠利、母:鈴木重直
酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。武蔵国川越藩の第2代藩主、後に若狭国小浜藩の初代藩主。第3代将軍・徳川家光から第4代将軍・徳川家綱時代の老中[2]・大老。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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出典検索?: "酒井忠勝" 小浜藩主
小浜城本丸跡にある小浜神社空印寺の墓
天正15年(1587年)6月16日、徳川家康の家臣酒井忠利(後の川越藩初代藩主)の子として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。
天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。慶長14年(1609年)11月、従五位下・讃岐守に叙任。元和6年(1620年)4月24日、2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。
寛永元年(1624年)8月には3代将軍家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝と共に本丸年寄(老中)となる。寛永4年(1627年)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩2代藩主となる。寛永9年(1632年)9月19日、武蔵のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し、侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。寛永11年(1634年)閏7月6日には、若狭1国および越前、近江、安房に加増され、若狭小浜へ移り、12万3500石を領する。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。
寛永15年(1638年)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。寛永20年(1643年)11月4日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。讃岐守の兼帯留任となる。明暦2年(1656年)5月26日に家督を四男の忠直に譲って隠居する。晩年は、若年にして酒井氏嫡流雅楽頭家の家督を継いだ忠清を後見していたという。
福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られている。
人物・逸話
幕政、家光・家綱の信任
忠勝は家光から駿府18万石への加増を打診されたことがあったが、家康が保有していた土地を拝領するのは勿体無いと辞退した。その後、甲府24万石への加増も提案されたが、これも辞退した。家光が辞退した理由を問い質したところ、忠勝は、大禄を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとして、自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主たちが驕らないとも限らない、ゆえに謹んで辞退したと述べた。また、忠勝には別の思慮もあった。大老の忠勝でさえ12万石の所領しか得なかったといえば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せず、後世への模範となるだろうと、忠勝は考えていた[3]。しかし晩年には、何か大事が起こった時、12万石では幕府を守り立てるのに役立てないから、もう少し加増を得ておくべきであったとも述懐している。
家光は忠勝を特に信任し、「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたという(『空印言行録』)[4]。また家光が他の重臣と協議するときは寝間着姿のときもあったが、忠勝との協議のときだけは必ず着替えて引見したという。
若い頃の家光は夜な夜な江戸城をよく抜け出していた。このため辻斬りをしているのではないかと噂されたが、実は寵愛していた小姓の山城守の屋敷に行っていた。ある寒い夜、家光は山城守邸を辞去しようとしたとき、履いた草履が暖かかったので山城守の心遣いかと思った。しかし実は忠勝が家光を心配して密かに警護しており、家光が城に戻るまでの間は外で待っており、草履を懐に入れて暖めていたのである。のちにそれを知った家光は夜遊びをやめたという(『仰景録』)。
家光とその弟忠長の後継者争いの際、家光は重病に倒れたことがあった。しかし家光への病気見舞いへの客人はほとんどなく、常に忠長に対しての訪問客が多かった。これに腹を立てた忠勝は、侍女が忠長のために豪勢な食事を持って行こうとしたとき、「兄が苦しんでいるのに、弟君の忠長公が食事などできるわけがない」として下げさせてしまった。ほどなくして秀忠が忠勝のもとにやってきたので、「忠長様に対する無礼討ちを覚悟で行いました」と述べた。すると秀忠は、「これからも家光を頼むぞ。お主は徳川家良弼の第一である」と述べたという(『玉露叢』)。
家光没後の翌日、忠勝は諸大名を江戸に集めて「公方様(家光)御他界に候へども、大納言(家綱)様御家督の事に候へば、何れも安堵あるべし。若し天下を望まれとならば、此節にて候ぞ」と言い放った。すると松平光通と保科正之が進み出て諸大名に向かい、「各々讃岐守申す旨承らるべし。此砌誰か天下を望む者あるべき、若し不思議の企仕る輩も候はば、我々に仰付らるべし。ふみつぶして御代始めの祝儀に仕候はん」と申し出て諸大名を平伏させたという(忠勝が「家綱は幼少ゆえ、天下を望む者があればよい機会である」といい、光通・正之らが「天下を望む者あれば申し出てみよ。徳川の代潰しの盃といこう」と述べている)(『武野燭談』。[5]。
家綱が若い頃、庭の大石を外へ出すように忠勝に命令した。