隋末唐初に王世充が建てた政権については「王世充」を、漢姓については「鄭 (姓)」をご覧ください。
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出典検索?: "鄭"
鄭前806年 - 前375年
国姓姫姓
爵位伯爵
国都?林
(陝西省渭南市華州区)
新鄭
(河南省新鄭市)
分封者宣王
始祖姫友
滅亡原因韓により滅亡
史書の記載『史記』
(巻42 鄭世家)
『春秋左氏伝』
(隠公元年に初見)
周朝諸侯国一覧
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鄭(Zheng)の位置
鄭(てい、紀元前806年 - 紀元前375年)は、中国の西周時代から春秋戦国時代まで存在した国。姓は姫、爵位は伯爵。現在の中華人民共和国河南省に位置した。
周の宣王の同母弟、姫友(桓公)が鄭(現在の陝西省渭南市華州区)に封じられたことに始まる。幽王の時、桓公は西周滅亡の混乱を避け、国民とともに東?(とうかく)と?(かい)の間に遷った。
次の武公は即位すると、まず東?と?を攻め滅ぼし、都を新鄭に定めた。武公・荘公は東周の平王の卿士となり周の再建をたすけた。しかし荘公はやがて周朝と反目するようになり、親征してきた周王直率の連合軍を大破した。荘公には即位時からの謀臣として祭仲という賢臣がいたが、荘公の子である詞は祭仲と対立し、暗殺しようとしたが事前に露見し、君主の座から逃げ出して副首都に逃げた。詞は祭仲がいなくなった後、復位した。
その頃、斉の桓公が東方の覇者となり、その会盟に参加したものの、むやみやたらと強い自尊心の為に会盟から脱退していた。その後、周の恵王が即位した際に再度卿士として政権の中枢へ返り咲いた。その後も鄭は王族である自尊心が強くみられ、それにより晋の文公(この時は重耳と名乗っていた)が諸国放浪中に鄭国内に立ち寄った際にも、詞の子である文公は「流浪中の老人」と重耳を揶揄して粗略な扱いをしたために重耳から睨まれ、重耳が晋君に即位した後に攻撃されることとなった。
以降、晋と楚の二大勢力の狭間で、晋に属しながらも楚に表向きには従う、という、いわゆる「面従腹背」を繰り返し、それを嫌った楚の荘王による討伐軍を受けることになり、いわゆる?の戦いへと発展することになった。このように春秋時代初期は強国であったが、小国であるが故に晋と楚との二大勢力による争いに巻き込まれ、徐々に衰退・没落した。それでも、名宰相として有名な子産が、土地制度・軍制・税制・法制を改革して国力を整理・増強し、外交にも手腕を振るったことで一時は荘公以来の全盛期となった。しかしそれも子産の死後は再び振るわなくなった。
紀元前375年、韓に滅ぼされた。これについては鄭攻略も参照。
歴代君主
桓公(友)(紀元前806年 - 紀元前771年)
武公(掘突)(紀元前771年 - 紀元前744年)
荘公(寤生)(紀元前744年 - 紀元前701年)
昭公(忽)(紀元前701年)
詞(突)(紀元前701年 - 紀元前697年)
昭公(忽)(紀元前697年 - 紀元前695年)※復位
子?(?)(紀元前695年 - 紀元前694年)
鄭子(嬰)(紀元前694年 - 紀元前680年)
詞(突)(紀元前680年 - 紀元前673年)※復位
文公(?)(紀元前673年 - 紀元前628年)
穆公(蘭)(紀元前628年 - 紀元前606年)
霊公(夷)(紀元前606年 - 紀元前605年)
襄公(堅)(紀元前605年 - 紀元前587年)
悼公(沸)(紀元前587年 - 紀元前585年)
成公(?)(紀元前585年 - 紀元前571年)
釐公(?頑、ツ)(紀元前571年 - 紀元前566年)
簡公(嘉)(紀元前566年 - 紀元前530年)
定公(寧)(紀元前530年 - 紀元前514年)
献公(?)(紀元前514年 - 紀元前501年)
声公(勝)(紀元前501年 - 紀元前463年)
哀公(易)(紀元前463年 - 紀元前455年)
共公(丑)(紀元前455年 - 紀元前424年)
幽公(已)(紀元前424年 - 紀元前423年)
繻公(駘)(紀元前423年 - 紀元前396年)