鄭道伝
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鄭道伝

各種表記
ハングル:???
漢字:鄭道傳
発音:チョン・ドジョン
日本語読み:てい どうでん
ローマ字:Chong Do-jon
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鄭 道伝(チョン・ドジョン、てい どうでん、至正2年(1342年) - 洪武31年8月26日1398年10月6日))は、高麗末期から李氏朝鮮初期の政治家・道学者。本貫は奉化[1]。字は宗之、号は三峰(サムボン)。
略歴

父の鄭云敬は高麗の忠粛王の治世に任官してからいろんな地方官を受け持った官僚で、1359年刑部尚書に任命された。鄭道伝の故郷である丹山には彼の出生にまつわる話が伝わっている。伝説によれば、鄭云敬は占い師に10年後に結婚をすれば生まれた子は宰相になるであろうと予言された。鄭云敬はその予言を信じて10年間金剛山で修養をした。そして家に戻る途中、にわかに雨に降られ、島潭三峰の草庵に止宿した。其処で禹氏の少女に出会い、鄭云敬はその少女を娶った。そして生まれたのが道伝であるという。
朝鮮建国の功臣

父の友の李穡を師として学問を学んだ。1360年科挙に合格して1363年官吏となるが、1375年に権臣の李仁任などの親元反明の政策に反対したために流刑に処される。流刑生活の中、孟子の影響を受けたとされる。1377年、流刑生活が終わって学問研究と教育に携り、1383年李成桂(後の太祖)の幕僚となる。この時東北面(現在の咸鏡道)の李成桂を訪れ、彼の軍勢を見て「見事な軍勢でございます。さぞどんな事をも成し遂げられましょう」と言った。驚いた李成桂が「そのどんな事とは?」と聞くと、道伝は知らぬふりをして「東南の倭寇を撃つ事にございます」と答えた[2]

威化島回軍を経て1389年昌王を廃して恭譲王を擁立すると功臣として封ぜられるが、1391年再び流刑に処された。1392年釈放されるが、その年4月に李成桂が遊猟中に落馬して負傷するという事件が起こった。うしろだてである李成桂が療養中のすきに鄭夢周などが「家風が不浄で家系が不確かだ」(鄭道伝の母は奴婢と『朝鮮王朝実録』に書かれている)と弾劾して、3度流刑に処された。李芳遠(後の太宗)が鄭夢周を暗殺すると釈放されて、同年7月17日李成桂を王に推戴した。
権力の頂点から逆賊へ

李氏朝鮮が建国された直後、すべての権限は鄭道伝に集中した。その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどだった。彼は開国一等功臣と認定を受けて、門下侍郎賛成事、判都評議使司事、判戸曹事、判尚瑞司事、普門閣太学士、知経筵芸文春秋館事、判義興三軍府事など、ほとんどすべての要職を兼職または歴任した。漢城遷都の以後、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。

軍事的には「義興三軍府」の司令官として軍制を改革し、高麗後期にほとんど私兵化した軍隊を段階的に革罷して帰属させた。また陣法を新たに作り、軍事たちに厳格に徹底させた。このような軍事政策は建国直後から推進された。短期的には国防力を強化させることが目的だったが、長期的には有事の際にに対抗するのが目的だった。

頂点にあった鄭道伝は王朝創業後酒席で「劉邦張良を利用して王朝を創業したのではない。むしろ張良が劉邦を利用して王朝を創業したのである」と言って、太祖と自分の関係を劉邦と張良の関係になぞらえた。政治的には個人である国王が全ての実権を握るよりも、宰相を中心とした士大夫が軍事、財政、人事などを掌握し政治をリードすべきであると主張した。そのため強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠(太宗)と対立した。太祖は継妃康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の末息子の李芳碩を王世子に指名し、政権樹立に功績があった芳遠を遠ざけた。明を刺激するであろう遼東出兵を計画したが、1398年政敵であった李芳遠の軍勢に殺された。詳細は「第一次王子の乱」を参照

鄭道伝の辞世の句

「操存省察両加功、不負聖賢黄巻中、三十年来勤苦業、松亭一酔竟成空
(志を維持し自分を省みる両方に励みつつ、聖賢の教えを裏切ることなく、三十年をも苦労し勤めてきたが、それらすべてが松亭の一杯の酒で空しく過ぎ去ってしまった。)」

であった。
思想
経済・農地改革
鄭道伝は流刑時代に民百姓の荒れ果てた暮らしを見てきた経験から民を哀れみ、農業と農地政策による人民の生活の安定化を目指した。その第一歩として権門世族の経済的基盤であり腐敗の温床であり百姓に酷い負担を強いていた私田を廃止し、何人かの貴族に独占された土地を再分配しようとした。鄭道伝が目指していた土地の完全国有化は実現されなかったものの
[3]、新たな農地政策である科田法に多大な影響を及ぼし所有権と徴収権の乱れや権門世族による農地の独占、そしてそれらの結果である農民の幾重もの重税の負担を解決した。これらの政策には儒教の聖賢の中でも孟子の影響が大きかったとされる。
民本と易姓革命
鄭道伝は『朝鮮経国典』で「民は至って弱きものなり。されど力を以ってこれを怯えさせることはできぬ。(民は)至って愚かなり。されど智を以ってこれを欺くことはできぬ。即ちその心を得て心服させるべし。その心を得られなければ民はすぐ去ってゆく」(下民至弱也。不可以力劫之也。至愚也。不可以智欺之也。得其心則服之。不得其心則去之)と言い、民こそが国の根本であり政治を行う王や士族は民のために存在するものとした。またこれはそのまま王としての役目を果たさず人民を苦しめる暴君を討ち人徳のある君主を立てるべきだという易姓革命にも通じ、朝鮮王朝創建の理論的な土壌を作った。しかしこれは「忠臣は二君に仕えず」と言う儒教の教えに背くものであり、鄭道伝は師の李穡や師弟の李崇仁・親友の鄭夢周など多くの保守派の士大夫から敵対される結果となった。また彼は著作の中で百姓や隠者の口を借りる形式を取り、人民の保護という自分の任務を全うせず私腹を肥やす役人や理屈ばかりを口にし聖賢の教えを実践しない腐敗した儒者を激しく批判している[4]
仏教への批判と崇儒抑仏政策
高麗の仏教勢力は大きな力を持ち貴族ともつながって腐敗の温床と化していた。鄭道伝は従来の仏教を批判し仏教勢力の抑制を図った。鄭道伝は『仏氏雑弁』で輪廻転生などの仏教の教理を迷信と断定、論破し、蕭衍など仏教に耽って滅んだ中国の王朝や皇帝の故事を引用し政治家は宗教に没頭してはならないし、迷信を打破すべきだと主張している[5]


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