鄭東泳
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韓国政治家鄭 東泳???(チョン・ドンヨン)
鄭東泳 (2019年)
生年月日 (1953-07-27) 1953年7月27日(70歳)
出生地全羅北道淳昌郡亀林面
出身校ソウル大学校
前職アナウンサー
現職民主平和党代表
所属政党(新政治国民会議→)
新千年民主党→)
ヨルリン・ウリ党→)
大統合民主新党→)
(統合民主党→)
民主党→)
(民主統合党→)
民主党→)
新政治民主連合→)
(無所属→)
国民の党→)
民主平和党→)
民生党→)
共に民主党
サイン
公式サイト ⇒cdy21.net
国会議員
選挙区(全羅北道全州市徳津区選挙区→)
全羅北道全州市丙選挙区(徳津区の一部)
当選回数5回
統一部長官
在任期間2004年7月1日 - 2005年12月31日
大統領盧武鉉
ヨルリン・ウリ党議長
在任期間2004年1月11日 - 2004年5月17日
ヨルリン・ウリ党議長
在任期間2006年2月18日 - 2006年6月1日
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鄭 東泳(チョン・ドンヨン、1953年7月27日 - )は、韓国政治家本貫は東?鄭氏[1]全羅北道淳昌郡亀林面出身。ヨルリン・ウリ党議長や第17代韓国大統領選挙候補(大統合民主新党)、民主党最高委員、民主党常任顧問[2]などを歴任。カトリック教徒で[1]洗礼名はダビデ。現在、民主平和党代表(2018年8月5日?)を務めている。
略歴

1953年7月27日、全羅北道淳昌郡亀林面生まれ。父の鄭鎮徹は全羅北道議会(朝鮮語版)議員を務めたことがある[3]1979年ソウル大学校国史学科卒。文化放送 (MBC) に入社し、報道局政治部で外務部(当時)、統一院(当時)、国会担当記者やロサンゼルス特派員(1989年-1992年)、週末「MBCニュースデスクアンカー(1995年-1996年)などを務めた。MBC在籍中の1988年に英国ウェールズ大学大学院を修了(ジャーナリズム学修士)。ロサンゼルス特派員時代には1989年サンフランシスコ地震(ロマ・プリータ地震)やロサンゼルス暴動などを取材・報道したほか、湾岸戦争イラク爆撃直前の1991年1月にヨルダンの首都アンマンへ派遣され、国王フセイン1世との単独インタビューに成功した。

1996年1月にMBCを退社、金大中の勧めを受けて同年4月の第15代総選挙で新政治国民会議から全羅北道全州市徳津区選挙区に出馬し全国最多得票で当選した。2000年の第16代国会議員選挙でも前回に続き最多得票で再選され、新千年民主党スポークスマンに就任。2003年にウリ党創党の一人となり、二度にわたり党議長を務めた。
盧武鉉政権と2007年大統領選挙

2004年統一部長官国家安全保障会議常任委員長に就任。2005年6月には北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長との電撃面談を果たす。12月、次期大統領選準備のため統一部長官を辞任。2006年1月、党議長再選。5月日韓が領有権を主張する竹島に上陸し、「領有権三原則」を発表。金槿泰保健福祉部長官らとともに、2007年大統領選挙与党有力候補の一人とされていたが、2006年5月31日に行われた統一地方選挙で大敗を喫した責任を取って党議長を辞任。候補者レースで大きく出遅れたものの、2007年10月15日に行われた大統合民主新党の予備選では全体の43%の票を獲得し、党統一候補に選出された。鄭東泳は北朝鮮との関係強化を公約に掲げたが、南北協力は金大中・盧武鉉の10年間ですでに目新しいものではなくなっており、また盧武鉉政権下における経済情勢の悪化が進歩主義勢力離れを引き起こした結果、野党ハンナラ党候補の李明博に支持率で大きく水をあけられ、12月19日に投開票が行われた大統領選挙で李に大差で敗れ落選した[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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