鄭和
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「鄭和」のその他の用法については「鄭和 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

鄭和
スマランの三保洞にある鄭和像
生年月日1371年
出生地中慶路昆陽州
没年月日1434年
死没地
現職宦官、武将、航海者
称号太監
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鄭和
泉州海外交通史博物館の鄭和像
各種表記
繁体字:鄭和
簡体字:?和
?音:Zheng He
和名表記:てい わ
発音転記:ヂォン・フー
英語名:Zheng He
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鄭 和(てい わ、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Zheng He, 宣光元年8月14日1371年9月23日) - 宣徳9年(1434年)頃)は、代の宦官、武将、航海者。

軍功を挙げて永楽帝に重用され、南海への計7度の大航海の指揮を委ねられた。その船団は東南アジアインドセイロン島からアラビア半島アフリカにまで航海し、最遠でアフリカ東海岸のマリンディ(現在のケニア)まで到達した。本姓は馬、初名は三保(三宝)で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。

前半生
生い立ち

宣光元年(1371年)に中慶路昆陽州宝山郷(現在の雲南省昆明市晋寧区)でムスリム(イスラム教徒)の次男として生まれた[1]。姓の「」はサイイド預言者ムハンマドの子孫)であることを示し、?陽侯であった父の名は「米里金」とされるが「馬哈只(中国語版)(ハッジ[注 1])」として知られていた。鄭和は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴル帝国に帰順し、世祖の治世に雲南平章政事として雲南の発展に尽力した色目人サイイド・アジャッル・シャムスッディーン・ウマル(賽典赤)の来孫[2]成宗の治世に中書平章政事を務めたサイイド・アジャッル・バヤン(中国語版)の曾孫に当たる。鄭和がムスリムの出だったことは、後に永楽帝が鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
宦官・鄭和

馬三保が生まれた年には、既に漢地洪武帝の建てた明のほぼ支配下にあり、元は梁王国の拠る雲南など数か所で勢力を保つのみとなっていた。天元3年(1381年)、馬三保が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌天元4年(1382年)に梁王国は滅亡。父を殺された馬三保は捕らえられて去勢され、洪武16年(1383年)頃に燕王朱棣(後の永楽帝)に12歳で宦官として献上された[3]

洪武帝の没後に起きた靖難の変において馬三保は功績を挙げ、建文帝から帝位を奪取した朱棣(永楽帝)より宦官の最高職である太監(中国語版)に任じられた。さらに永楽2年(1404年)には鄭姓を下賜され[4]、以後は鄭和と名乗るようになった。
大航海の計画鄭和艦隊の進路

東アフリカ代の貨幣が出土していることから、この時期には既に東アフリカまでの航路があったと考えられている。代から元代にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建てた洪武帝は洪武4年(1371年)に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による他国との通商を禁じた[5]。この海禁令は明を通じて守られ、これは永楽年間においても例外ではなかった。一方で永楽帝は洪武年間の消極的な対外政策の間隙を縫って、皇帝の座を奪取した悪名の埋め合わせのため周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。
船団鄭和の宝船の模型

鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)(中国語版)と呼ばれた。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、8,000t、マスト9本であり、小さく見積もっても長さは約61.2m、1,170t、マスト6本という巨艦とも言われる[6][注 2]。出土品や現代の検証から、全長50m前後という説もある[7]。またこの他、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている[8]

艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ2万7000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官など様々な職種からなっていた[9]

2006年9月に南京で全長63.25mの鄭和の宝船が復元された[10]
大航海の理由

なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通りである。
靖難の変で行方不明となった建文帝が南海に逃亡した可能性があるため、それを捜索するためとする説。

西の
ティムール朝の伸長を恐れた永楽帝が、ティムールの背後の勢力と結んで挟撃するためという説。

洪武帝が滅ぼした張士誠の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。

1の説はあり得なくはないが、主目的だったかには疑問がある。2の説についても、ティムールは第1次航海の年に死んでおり、ティムール個人の才覚に基づいたティムール朝はその没後、急速な分裂に向かっていた上、その後継者となったシャー・ルフらは明との友好路線を選択したためこれも理由とは考えづらい[11]。3の説は朱元璋(洪武帝)が張士誠を破ってから長く時が経ち過ぎており、さらに張士誠の残党は当時の明の国力からしてまったく脅威となる存在ではなかったため、これも考えにくい[12]

他に考えられる理由としては、簒奪という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼視を払拭するために、他国からの朝貢を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。政治的な理由よりも、明の艦隊が南シナ海インド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信(中国語版)などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華王朝側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、貿易形態が朝貢である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。

なお、上記の説とは別に、永楽年間の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝によるモンゴル高原への親征(中国語版)をはじめ、胡季?陳朝大越を簒奪して建てた胡朝大虞を認めず、永楽5年(1407年)に派兵して大虞を滅ぼし、安南を支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。チベットネパールベンガルといった西南諸国には侯顕(中国語版)が繰り返し派遣され、特にベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は東チャガタイ・ハン国やティムール朝に計4度派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興はシャムへと派遣され、女真人のイシハ(亦失哈)は軍とともに黒龍江地方へと派遣されてこの広大な地域を明の支配下に組み込んだ[13]


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