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をお願いします。(2020年5月)都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉 - 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 文久元年2月17日、高崎藩の名主・藤井安治の二男として生まれる。幼名不詳。のち西条藩士・都筑?忠・たか(同藩士雨森主馬の娘)夫妻の養子となる。横浜修文館
経歴
1886年(明治19年)5月に帰国し、外務省に入り、公使館書記官兼外務省参事官に就任。従六位に叙せられる。外務大臣井上馨の秘書官を経て、1888年(明治21年)1月、フランスに留学。1890年3月に帰国し、山縣有朋内閣総理大臣秘書官となる。以後、法制局参事官、兼内閣総理大臣秘書官、内務省土木局長、兼内閣総理大臣秘書官、図書頭、文部次官、外務省参事官、外務次官などを歴任。1892年(明治25年)には、井上の養女光子(南朝の忠臣・新田義貞末裔の新田忠純男爵の妹)と結婚し、女婿となっている。しかし岳父の薨去ののちに離婚し、芝・紅葉館の給仕であった妾の静子(旧姓不詳)を妻とした。1915年には嗣子の忠春をもうけている。
1899年(明治32年)4月19日、貴族院勅選議員に任じられ[2]、1909年(明治42年)2月27日[3]まで在任。1900年(明治33年)には伊藤博文の政友会結成に参加している。1903年(明治36年)7月、枢密院書記官長に就任。1907年(明治40年)4月、特命全権大使に任じられ、オランダ王国のハーグで開催された第2回万国平和会議に委員として派遣され、大韓帝国の閔妃暗殺事件が契機のハーグ密使事件の対応に当っている。
1907年6月、法学博士号を授与された。「Category:法学博士取得者」を参照