都筑郡(つづきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡。現在は横浜市都筑区にその名をとどめるが、区域は現在の都筑区よりも広範囲であり、鶴見川と帷子川流域の内陸部を占めていた。「旧高旧領取調帳」によれば、都筑郡全体の石高は28579石である(小数点以下四捨五入)。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。 行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。 古くから当地域は「つつき」と呼ばれており、その読みに字を当てた「都筑」が 8世紀頃に郡名として定着したと考えられている(「つつき」の語源については定説がない)
郡域
横浜市
旭区、緑区、青葉区、都筑区の全域
保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町)
港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西)
瀬谷区の一部(卸本町の一部)
川崎市
麻生区の一部(万福寺、上麻生、王禅寺西、王禅寺東、王禅寺以西)
隣接していた郡
神奈川県 : 南多摩郡、橘樹郡、鎌倉郡
郡役所
1878年(明治11年) 12月2日 - 中原街道沿いの都岡辻(現在の横浜市旭区都岡72番地)に郡役所が設置された[1]。
1879年(明治12年) - 郡役所が都田村川和に移転[2]。
1924年(大正13年) - 現在の横浜市都筑区川和町1234番地に再移転。郡役所庁舎は、もとは大正5年に尋常高等都田小学校
1939年(昭和14年) - 郡役所廃止後、庁舎を横浜市港北区役所川和出張所として使用。
1964年(昭和39年) 4月1日 - 港北区役所川和出張所は、港北区川和支所に改組された。
1969年10月1日 - 緑区の分区に伴い、1972年(昭和47年)3月31日まで、緑区役所の仮庁舎として使用。
1972年(昭和47年) 4月1日 - 川和公会堂として使用。
2011年 川和公会堂(旧郡役所庁舎)が取り壊された。
概要
有史以前
縄文時代 - 集落が形成されたと見られ、丘陵地から貝塚が、花見山遺跡からは竪穴建物跡や土器が発見されている。
弥生時代 - 集落の拡大時期と見られ、大塚・歳勝土遺跡(環濠集落跡、国の史跡)などはこの時期に形成されたと考えられている。
古墳時代 - ヤマト王権とも繋がる有力首長により地域の統一がなされたと見られ、稲荷前古墳群はその一族の墓とされる。
古代長者原遺跡(推定都筑郡衙跡)
郡衙は長者原遺跡(現在の横浜市青葉区荏田西)に置かれていたと推定されている。
8世紀後半の万葉集二十巻の防人の歌「和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美禰婆保久毛乎 美等登志怒波禰 右一首都筑郡上丁服部於田」が、史料上の初見とされる。
927年の「延喜式神名帳」に都筑郡の社として杉山神社が挙げられており、938年には「和名類聚抄」に、都筑郡の郷として、余部(あまるべ)、店屋(まちや)、駅家(えきや)、立野(たての)、針折(はざく)、高幡(たかはた)、幡屋(はたや)が記されている。「針折」は「罰佐久」とも書き、現在の横浜市緑区西八朔町、北八朔町付近を指す。 幡屋郷は現在の二俣川付近で、後の帷子(かたびら)宿・保土ヶ谷宿(橘樹郡)の前身になったと言われる。
この時期、足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)、中原街道の整備が進み、東海道や東山道につながったと見られる。
中世
鎌倉時代 - 各地に鎌倉街道が整備され、当郡を縦断し鶴川・柿生・黒川など各地を通って多摩郡へ抜け、首都である武蔵国の国府(東京都府中市)へ至る様々な道が通る様に成ったと推定されている。
室町時代 - 茅ヶ崎城(現在の横浜市都筑区)が築かれる。