都留重人
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都留 重人近代経済学

生誕1912年3月6日
日本東京都
死没 (2006-02-05) 2006年2月5日(93歳没)
他の指導学生高須賀義博
中村達也
渡会勝義
渡邉寛
村田稔
望月喜市
伊東光晴
関根友彦
高山晟
影響を
与えた人物宮崎義一[1]
宮本憲一[2]
実績国民経済計算における三面等価の原則の考案
公害問題を扱う雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)を創刊した
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都留 重人(つる しげと、1912年明治45年〉3月6日 - 2006年平成18年〉2月5日)は、日本経済学者一橋大学名誉教授。公害政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。

初代一橋大学経済研究所長、第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)を歴任、日本学士院会員に選出された。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。
略歴

東京都生まれ、名古屋市育ち。小学校第5学年修了、熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第4学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。

日本の大学に進学できなくなったため、アメリカウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学し、ハリー・ホワイトなどの授業を受ける。その後ハーバード大学の学部に入学し、1935年(昭和10年)に優等賞を取得し卒業、同期でただ一人大学院に進学した。大学院では後に高名を馳せたポール・サミュエルソンが同窓生。1936年(昭和11年)、同大大学院で修士号取得。結婚後、1940年(昭和15年)、同大大学院で博士号 (Ph.D.) を取得[3]。博士論文は“Development of capitalism & business cycles in Japan, 1868-1897”[4]。そのままハーバード大学講師となる。

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦勃発(日米開戦)を受けて辞職して交換船で帰国後、妻の伯父である木戸幸一重光葵に頼み、外務省嘱託として就職。

1943年(昭和18年)、旧制東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)嘱託研究員。その後都城二等兵を務めたのち、外務省勤務[4]

1944年(昭和19年)6月、東條英機により、意見が対立していた木戸に圧力を掛ける目的で、解雇された上、召集令状が出されて陸軍に徴兵された。しかし、木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄[注 1] に頼み込んだので、赤松は木戸の依頼に応え、外務省から都留のために「余人をもって替えがたし」という申し入れを陸軍に出させるように取り計らい、3カ月で除隊となった[5]

連合国軍最高司令官総司令部経済科学局調査統計課勤務を経て、1947年(昭和22年)、片山内閣の下で経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任、第1回経済白書『経済実相報告書』を執筆した。

1948年(昭和23年)、東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任し、同時に自宅で社会人を対象にした「背広ゼミ」を開始[4]。その後、冷戦下の赤狩りマッカーシズム)の中でアメリカ留学当時共産主義者であったことを告白する[6]

1949年(昭和24年)、中山伊知郎の後任として、新制一橋大学経済研究所の初代所長に就任。1950年(昭和25年)、第2期日本学術会議会員。1956年(昭和31年)、一橋大学経済研究所長を退任し小原敬士と代わる[4][7]1956年(昭和31年)、ハーバード大学客員教授。1960年(昭和31年)、イェール大学客員教授[4]

1963年(昭和38年)には宮本憲一柴田徳衛らと、公害研究委員会を設立。これはのちに日本環境会議の母体となった[8]

1965年(昭和40年)に伊大知良太郎の後任として再び一橋大学経済研究所所長に就任し、1967年(昭和42年)に山田勇と代わるまで務めた。1971年(昭和46年)『公害研究』を創刊[4][7]

学園紛争で学長のなり手がおらず、3年間にわたり学長不在が続いていたため、一橋出身者以外からは初となる一橋大学学長を1972年(昭和47年)から務めた。しかし、のちに一橋出身ではないとして批判を受けるようになり、1975年(昭和50年)に退官し、一橋大学名誉教授。代わって小泉明が学長事務取扱を務めた[9]

1975年から1985年(昭和60年)まで朝日新聞社論説顧問[4]1986年(昭和61年)から明治学院大学教授[4] を務め、明治学院大学国際学部の創設に尽力した。在職中は教え子の伊東光晴(当時京都大学教授)や関根友彦(当時ヨーク大学教授)の招聘などを検討していたが、やがて学内対立で、教え子の宮崎義一教授(京都大学名誉教授)などの擁護も虚しく、1990年(平成2年)明治学院大を辞職した[9][10]

2006年(平成18年)2月5日に、前立腺がんのため死去。93歳だった。如水会館で「偲ぶ会」が開かれ、門下生の伊東光晴京都大学名誉教授や、杉山武彦一橋大学学長、高山憲之一橋大学経済研究所長、篠原三代平一橋大学名誉教授、小宮隆太郎東京大学名誉教授、宮本憲一大阪市立大学名誉教授、寺西俊一一橋大学教授、速水優前日本銀行総裁、宮崎勇元経済企画庁長官ら500人あまりが集まった[11]


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