この項目では、東京で刊行されていた新聞について説明しています。京都で刊行されていた大阪毎日新聞の姉妹紙については「都新聞 (京都)
」をご覧ください。都新聞
都新聞社の社屋
種類日刊紙
サイズブランケット判
事業者(都新聞社→)
株式会社都新聞社
本社東京府東京市麹町区内幸町1丁目
(現・東京都千代田区内幸町2-2-1)
創刊1889年(明治22年)2月1日
廃刊1942年(昭和17年)9月30日
(以降、國民新聞と合併して東京新聞となる)
言語日本語
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都新聞(みやこしんぶん)は、かつて存在した日本の日刊新聞。1942年、新聞事業令により國民新聞と合併して東京新聞となった。 1888年(明治21年)、競合紙時事新報の記者だった渡辺治(後に大阪毎日新聞社初代社長兼務)と大手出版社金港堂(東京書籍の源流)の創業者原亮三郎が組んで今日新聞を買収。今日新聞はみやこ新聞に改題し朝刊紙に切り替え、社長に原、主筆には渡辺が就いた。さらに翌年2月1日から「都新聞」と漢字に改めた。題字は吉田晩稼
歴史
今日新聞としての創刊によって日本初の本格的夕刊紙として東京で創刊された今日新聞(こんにちしんぶん)である。創刊時の部数は1万部。横浜毎日新聞OBで仮名読新聞、いろは新聞などを創刊した戯作者仮名垣魯文を初代主筆に迎えた。当初から芝居や寄席演芸、花柳界関係(いわゆる「芸事」げいごと)に強かったが、夕刊自体が時代に合わず、経営は苦しかった。「仮名垣魯文#新聞人」も参照
都新聞の創刊と芸能面の充実
絵入自由新聞から移籍して主筆に就任した黒岩涙香の人気もあり、発行部数は一挙に3万部に躍進。しかし、原の妻の兄でタニマチ役を担った山中閑が株取引で失敗する。後ろ盾を失った原は第3代衆議院議長男爵楠本正隆に社を売却した[2][3][4]。黒岩は、原の後任として都新聞社に乗り込んだ楠本と衝突、退社して萬朝報を創刊する。黒岩の探偵小説が載らなくなり困った会社は、刑事出身の探訪長高谷為之に「探偵実話」を書かせ、これが評判を呼んだ。詳細は「萬朝報#沿革」を参照
また、これと並んで競合紙東京日日新聞(現・毎日新聞東京本社版)を発行していた日報社(現・毎日新聞GHD)の元社長福地源一郎(桜痴)と守田勘彌が協力して芝居記事を多く掲載させるなど、のちに売り物となる芸能との関係は引き続き密接であった。