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都営バス 品川自動車営業所
Tokyo Metropolitan Bus Shinagawa bus office
品川自動車営業所(事務所棟)
所在地東京都品川区北品川1-5-12
所管系統数12系統(深夜バス等特殊系統除く)
運行担当区域品川駅を中心に品川区・港区エリアの路線
(一部臨海副都心地区の路線も担当)
バス収容可能台数約158台(職員自家用車・検収庫分除く)
道路を隔てて向かいの駐車・留置区画
都営バス品川自動車営業所(とえいバスしながわじどうしゃえいぎょうしょ)は、東京都品川区北品川[1]にある都営バスの営業所で、主に品川区東部と港区を中心に一部、江東区を含めた臨海副都心地区の路線を担当している。営業所上層部に都営北品川一丁目アパートが併設されている。営業所記号はAを用いる。ナンバーは品川である。管轄下に港南支所を置く。
最寄り停留所は品川車庫前である。 旧東京市営の営業所として現在の形になったのは1942年(昭和17年)2月1日のことであるが、その源流となる民営バスの拠点としては大正時代から存在するという、都営バスの中でも有数の歴史を持つ営業所である。その基礎が確立するに至るまでは、都営バスの前身である青バス由来の路線の他、現在の東急バスや京浜急行バスの系譜に連なる複数の民間事業者の流れが複雑に絡み合っている。 当営業所管轄の路線は大別すると、JR山手線の内側および、そこから郊外に乗り入れる路線と、品川区の東側を中心としている。 路線の一番の大元は、大正から昭和の初期にかけて東京乗合自動車(青バス)系列の京浜乗合自動車が開設したものである。京浜乗合自動車は1919年(大正8年)、高輪(省線品川駅)から京浜国道を下り、六郷村(現・大田区)に至る路線を開設した。この路線は、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の鉄道線(現・京急本線)とほぼ併走していたことから、京浜電気鉄道も自社路線防衛のためバスへの参入をもくろむが、京浜乗合自動車の既得権の前に免許が下りない事態となる。 京浜電気鉄道は1929年(昭和4年)になって改築されたばかりの新国道(第一京浜)経由で高輪 - 六郷橋間の路線免許を取得し、10月29日に営業を開始すると、翌1930年(昭和5年)10月10日に東京乗合自動車(1929年7月31日京浜乗合自動車を合併)から旧国道経由六郷線を買収、青バスは東京府南部から撤退した。詳細は「京浜急行バス#京浜電気鉄道のバス事業」を参照 一方、五反田駅から先の中原街道沿いでは池上電気鉄道(現・東急池上線)が1927年(昭和2年)9月9日に五反田乗合自動車商会(1923年(大正12年)4月25日開業)の鏑木悦三から権利を買収して、五反田駅 - 中延(中延車庫前)間と平塚橋 - 馬込町(荏原町駅付近)の2路線でバス事業を始め、その後丸子の渡しまで延伸したが、このバスが山手線内に入り込み、御殿山通り経由で品川駅に乗り入れるようになる。池上電気鉄道は1934年(昭和9年)10月1日目黒蒲田電鉄(現・東急)に吸収合併され、目黒蒲田電鉄バス中延営業所・池上営業所となった。 ほぼ同時期の1930年(昭和5年)1月19日に、東京市芝区(現・港区)では国鉄田町駅周辺の通勤輸送を行う芝浦乗合自動車という会社が設立された。この会社は太陽自動車商会の千葉諒二と千葉諒祐が設立し、1928年1月23日より八木哲が経営していた田町駅裏口から日ノ出町・月見町循環線ほか計4線を譲受して開業していたが、欠損続きのため1936年(昭和11年)5月30日より後述する目黒自動車運輸の志保澤忠三郎が経営を肩代わりしていた。1937年(昭和12年)12月1日、目黒自動車運輸とともに目黒蒲田電鉄に合併、目黒蒲田電鉄バス芝浦営業所と変わった。 また、東京府碑衾町(現・目黒区)を拠点に営業していた目黒自動車運輸が、国鉄目黒駅から山手線内に入り込み、品川駅に至る路線を作った(後述)。この目黒自動車運輸はもともと志保澤忠三郎が創業した貨物運送会社だったが、目黒乗合自動車の権利を1923年(大正12年)4月に譲受して乗合自動車に進出した会社であり、1929年(昭和4年)5月28日に玉川電気鉄道の資本下に収まっていた。その後、白金台 - 品川駅前間の高輪乗合自動車商会(1937年4月15日開業)を合併して白金台 - 目黒駅間を延伸。上述の目黒駅 - 品川駅間の路線を入手した。1936年5月30日に上述の芝浦乗合自動車の経営権を得ていたが、1937年12月1日、芝浦乗合自動車とともに目黒蒲田電鉄に合併して目黒蒲田電鉄バス下目黒営業所(現・東急バス目黒営業所)となった。
歴史
戦前・民営乱立時代