郷挙里選
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郷挙里選(きょうきょりせん)は、中国漢代に行われていた官吏の登用制度のひとつである。地方の高官や有力者が、秀才孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。
正史での用例

「郷挙里選」は歴史的にも用いられていた語であり、中国の正史でも使われている。『後漢書』によると、後漢章帝は、次のように言及した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}又、選挙は実に乖き、俗吏は人を傷つけ、官職は耗乱し、刑罰は中らざるを、憂わざるべきか。昔、仲弓は季氏の家臣なりて、子遊〔ママ〕は武城の小宰なるに、孔子は猶お賢才をもって誨え、得人をもって問えり。明政に大小なく、得人をもって本と為す。夫れ、郷挙里選、必ず功労は累ぬ。今、刺史と守相は真偽を明らかにせず、茂才と孝廉は歳に百をもって数え、既にして能の顕るにあらざるに、当にこれに政事を授くべきとは、甚だ謂れなし。[引用文の注釈 1]章帝、『後漢書』「章帝紀」[1]

後世では漢代の登用制度を指す言葉として使われ、例えば、『晋書』によると、西晋衛?と劉毅(中国語版)が、当時の登用制度・九品官人法を廃止して漢の登用制度への復活を司馬炎に提案したときに、後者を「郷挙里選」または「郷議里選」と呼んだ[2][3]。ただし、この提案は実現しなかった。また、『新唐書』によると、の李棲?・李広・賈至厳武らも同様に「郷挙里選」を復活させる提案を行い、こちらは一部が受け入れられた[4]
理念としての郷挙里選「郡国制」、「郡県制」、および「郷里制」も参照

漢代の地方制度は、大きい順に、(後漢のみ)、郷、里となっており、「郷挙里選」を文字通り解釈すれば、漢代の「郷」と「里」が推薦する制度ということになる。

の邱濬(中国語版)は『大学衍義補(中国語版)』において、『周礼』と『礼記』の一節を引用して、周代の登用制度は郷挙里選であると述べた[5]。これをふまえて、の『古今図書集成』の「郷挙里選部彙考」やそれに続く近現代の書籍も、郷挙里選の説明を周代から始めている[6]。これに先立つ唐の『通典』の「選挙典」やの『文献通考』の「選挙考」は、周代の登用制度を郷挙里選とは呼んでいないものの、中国の登用制度の歴史をまとめた文章で、最初にやはり『周礼』と『礼記』のほぼ同じ個所を引用している[7][8]。以下がその引用部分である。大司徒の職は、(中略)郷三物をもって万民に教え、これを賓興す。一に曰く六徳、知仁聖義忠和。二に曰く六行、孝友睦姻任恤。三に曰く六芸、礼楽射御書数。

(中略)
郷大夫の職は、(中略)三年に則ち大比あり、その徳行、道芸を考り、賢者、能者を興す。郷老及び郷大夫はその吏とその衆寡を帥い、礼をもってこれを礼賓す。厥明、郷老及び郷大夫、群吏は、賢能の書を王に献じ、王は再拝してこれを受け、天府に登し、内史はこれに弐す。[引用文の注釈 2]—『周礼』「地官司徒」[9]郷に命じて秀士を論ぜしめこれを司徒に升ぐ、曰く選士。司徒は選士の秀者を論じてこれを学に升ぐ、曰く俊士。司徒に升げられた者は郷に征せず、学に升げられた者は司徒に征せず、曰く造士。

(中略)
大楽正は造士の秀者を論じ、王に告ぐをもってこれを司馬に升ぐ、曰く進士。司馬は官材を弁論し、進士の賢者を論じて、王に告ぐをもってその論を定む。論の定まりてしかる後にこれを官す。任官してしかる後にこれを爵す。位の定まりてしかる後にこれを禄す。[引用文の注釈 3]—『礼記』「王制」[10]

後漢の鄭玄によると、『周礼』で大司徒や郷大夫が行う「興」は漢代の「挙」で登用の意味であり、鄭衆によると、徳行を備える賢者と道芸を備える能者の選出は、それぞれが漢代の孝廉と秀才に相当する。また、『礼記』の造士は、後述する漢代の博士弟子員(中国語版)にあたると言える[11]。『周礼』には偽書の疑いもあり、このような制度が本当に実施されていたかはともかくとして、これらは漢代を含む後世の登用制度のお手本となった。

なお、同じく『周礼』の「地官司徒」によると、当時の地方制度は、大きい順に郷、州、党、族、閭(里)、比(隣)、家である。郷は、都市国家とはいえ、王の領地の6分の1で12,500家に相当する最大の区分であり、漢代の郷とは異なる。
選挙、察挙と秀才・孝廉「選挙#伝統中国における選挙」も参照

以上のような背景から、「郷挙里選」の意味するところには儒家にとっての理想を体現した制度という側面があり、状況によっては、その指す内容と実際に漢で行われていた登用制度にはいささかの乖離がある[12]

一方で、選挙は、漢代の歴史を記した『史記』、『漢書』および『後漢書』のいずれにおいても官吏の登用そのものを指す言葉で、古くは周代から、以降の歴史では九品官人法や科挙も含めて広く使われる言葉である[11]。また、察挙は、歴史書の人物伝で使われる動詞「察」に由来し、登用が(上位者からの)推薦によるものであったことを明確に示す言葉である[13]。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この秀才・孝廉などの科目での登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。

逆に言うと、察挙は推薦による登用全てを指すので、地方からの推薦だけではなく三公九卿大将軍のような中央の高官からの推薦も含んでいる。したがって、地方からという点を重視すると、州・郡の長官が推薦する秀才(茂才)・孝廉による登用が最狭義の郷挙里選であり、冒頭に引用した章帝の発言もこの意味で使われている[13]

これまで見てきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば道家葛洪は、郷挙里選を秀孝という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した[14][15]。秀才に挙げられるも書を知らず、孝廉に察せられるも父は別居す。寒素、清白の濁れること泥のごとく、高第、良将の怯えること鶏のごとし。[引用文の注釈 4]葛洪、『抱朴子』「審挙篇」[16]

とりもなおさず、冒頭の章帝の発言も、茂才・孝廉での登用の結果に批判的な内容である。
漢代の登用制度
官僚制度の概略詳細は「秩石」および「光禄勲」を参照「前漢#官制」および「後漢#官制」も参照

漢代の官職は秩石によって階級が分かれており、例えば前漢では、九卿や大きな郡の太守なら中二千石、普通の郡の太守や都尉なら二千石、10,000戸を超す大県の長官である県令なら、その大きさに応じて六百石から千石、それに満たない小県の長官・県長は三百石から五百石、県の佐官である県丞・県尉は二百石から四百石、県の属吏である卒史・属・書佐などであれば百石・斗食・佐史、というように格付けされていた。ただし、大県と小県の実態的区分は人口ではなく面積だったという説もある[17]

この秩石の序列とは別に、漢代の官吏には大きく分けて2つの区分があった。ひとつが皇帝によって任命された勅任官(長吏)で、もうひとつがそうではない非勅任官(少吏)、つまり、主に(州・)郡・県などの地方政府(の高官)によって採用された属吏である。この両者の間には出世のルートや待遇の面で厚い壁があった。また、この地方政府の高官、すなわち長官や佐官とされた州の刺史や県の尉などは勅任官であったが、彼らは本籍地として登録されている本貫地に派遣されることはない、という厳格なルールがあり、逆に、非勅任官は基本的に本貫地で現地採用された[13]

これらの官職は秩石の大小を問わず、4年を目安とした満期が設定されており、その満期が来れば官吏に「功」が一つ追加され、満期に達しない年数は「労」としてカウントされた。例えば、ある官職を6年務めた場合は「功一労二歳」というように評価された。これを功労という。功はもともと戦争で首級を上げるなどの戦功を評価する制度で、大きな戦争がなくなった後も、盗賊の捕縛で功が追加されたり、公的な弓術大会で好成績を収めれば労に最大3ヶ月追加されたり、逆に不始末があれば「奪労」として労を減らされたりした。こうした功の累積による昇進を功次といい、それに伴う異動を遷転という[18][19][20][21]


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