郷原洋行
[Wikipedia|▼Menu]

郷原洋行

基本情報
国籍 日本
出身地鹿児島県鹿屋市
生年月日1944年1月21日[1]
死没 (2020-01-31) 2020年1月31日(76歳没)[1]
騎手情報
所属団体日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎中山大久保房松(1961年4月 - 1974年5月)
中山・佐々木猛(1974年5月 - 6月)
中山→美浦・大久保房松(1974年6月 - 1987年2月)
美浦・フリー(1987年3月 - 引退)
初免許年1962年3月17日
騎手引退日1993年2月28日
重賞勝利83勝
G1級勝利10勝
通算勝利11906戦1515勝
調教師情報
初免許年1993年(1994年開業)
調教師引退日2011年2月28日
重賞勝利4勝
G1級勝利2勝
通算勝利2748戦104勝(JRA)
26戦2勝(NAR)[2]
経歴
所属美浦T.C.
テンプレートを表示

郷原 洋行(ごうはら ひろゆき、1944年1月21日 - 2020年1月31日[1])は鹿児島県鹿屋市出身の元騎手・元調教師

元騎手の郷原洋司は次男[1]吉野勇岳父
経歴

実家は農家。五人兄弟の次男として生まれ、父親に育てられた。幼少期より農耕馬などに乗り馬に親しみ、周囲には普通に馬車が走っていた[3]。馬車のタイヤはまだゴムも巻かれていない時代で、パワーのある馬が引っ張っていた[3]弁当日の丸弁当が当たり前で、パン牛乳を持ってくる子がいれば羨ましがられた[3]。中学時代はマラソンを好きになったこともあったが、日本中央競馬会の騎手講習生募集の広告を見て、東京へ出たい一心で騎手を志す。中学卒業後の1959年馬事公苑騎手養成長期課程へ入所し、修了後の1961年より騎手候補生として中山大久保房松厩舎に入門。

1962年3月にデビューを果たし、同期には中島啓之榎屋忍中神輝一郎がいる。榎屋とは同じ列車に乗って28時間かけて[3]上京し、騎手を目指した。同17日の中山第2競走4歳未勝利・シオカゼオー(12頭中12着)で初騎乗を果たすが、勝ったヒダノタカラに騎乗したのは同期の中神で、初勝利であった。4月22日の中山第1競走4歳以上20万下・アイデアルで初勝利を挙げ、10月6日の中山では初の1日2勝、12月8日翌9日の中山では初の2日連続勝利を記録するなど初年度は8勝をマーク。2年目の1963年には31勝と躍進し、同年なら1992年まで30年連続2桁勝利を記録。3年目の1964年に38勝を挙げて全国9位に入り、初めてベストテンにランクインすると、1980年まで17年連続ベストテン入りを記録。同年の京王杯SHではクリライトに騎乗し、保田隆芳高松三太古山良司らベテランとの競り合いの末、4着まで同タイムの激戦を制して重賞初勝利。

1967年は79勝を挙げて初の関東リーディングに輝き、リュウズキ皐月賞を制して八大競走を初制覇。リュウズキはトライアルのスプリングステークスで外傷を負い、一度は皐月賞を断念したが、この年は厩務員ストライキで皐月賞が3週遅れで開催されたため、何とか怪我が癒えて出走できた[3]。その後は一度、人間関係のもつれから挫折し、騎手を辞めて田舎に帰ろうとした事があった[3]。その噂を耳にした馬主栗林友二に「うちの会社に来てください」と呼び出され、社屋へ行くと1階の受付の前には多くの来訪者がいたが、郷原が受付に来社の理由を告げると、すぐに上階へ通された[3]。8階の社長室へ通され、栗林に「皆、面会の順番待ちをしているのに何故すぐあげてもらえたか分かるか?」と言われた[3]。小首を傾げる郷原に栗林は続けて「お前が騎手だからだぞ」と言い、郷原は翻意し、以降は騎手という仕事に誇りを持つようになった[3]

1968年には自己最多の85勝を挙げるなど順調に活躍していたが、1971年に右足に痛風を患う。を履くだけでも30分は要し[4]、当時の医学では痛風は治療の難しい病気であったため、一時しのぎに痛み止めの注射を打つくらいしか出来なかった[3]。痛みに耐えかねて一時は引退も考えたが、懇意であった馬主の栗林に説得されて翻意し、禁酒など食事制限をして生活習慣から変えるなど[3]体質改善により痛風を克服[5]。郷原は痛風を一生連れ添う友達だと考えて節制し、虎ノ門にある病院の先生と真剣に話し合って、痛風のメカニズムと、食事や運動で自分の体をどうコントロールすればいいかを教わった[4]。その後は復調して1974年1975年1978年と3度の関東リーディングを獲得。この間にイチフジイサミで1975年に天皇賞(春)プレストウコウ1977年菊花賞を制覇。イチフジイサミの天皇賞(春)は断然人気のキタノカチドキ1頭と思い定めて、他馬は眼中にさえない徹底的なマークに終始し、抜き去ったところがゴール[6]の横綱相撲で倒した[7]。芦毛のプレストウコウは岡部幸雄安田富男からバトンを受けて秋口の京王杯AHからコンビを組み始め、古馬相手の京王杯では2着に健闘。調子を上げてセントライト記念京都新聞杯とトライアル連勝で臨むが、本番の菊花賞は短距離血統が嫌われて3番人気と案外に低い評価で迎える[8]。レースは1000m通過タイムが60秒3の平均ペースで流れるが、2周目の向正面では14秒2-13秒8と極端に落ちる。2番手を進んだダービー馬ラッキールーラがたまらず先頭に立ち、それを合図に後続各馬が捲り気味に進出を開始するが、3コーナーの坂の頂上あたりでプレストウコウはズルズルと後退していく[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef