郵便車
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郵便荷物車 スユニ50 501 小樽市総合博物館にて 集配用の軽自動車(スズキ・エブリイ

郵便車(ゆうびんしゃ)とは、郵便物運送するために郵便事業者や輸送受託者が保有し使用する車両。鉄道車両としての郵便車と、自動車としての郵便車がある。
鉄道郵便
日本の鉄道郵便座席郵便荷物合造車 キハユニ25 1 小樽市総合博物館にて 郵便室の表示 スユニ50の締切郵袋室 小樽市総合博物館にてスユニ50の郵便区分室 小樽市総合博物館にて

日本の鉄道制度では1872年明治5年)6月13日から1986年昭和61年)10月1日まで鉄道郵便が制度化されていた[1]。略して「鉄郵」。

日本では形式称号車体表記に、郵便の頭文字をとった「ユ」を採用していた。また、扱いは荷物列車と同じ扱いとなっていた。そのため、一般の旅客列車に連結されたり、荷物車とともに組成された専用列車も運行されたりしていた。

鉄道院→鉄道省→運輸省(鉄道総局)→日本国有鉄道(国鉄)の列車組み込まれる車両では、一部が郵便室となっている合造車は国鉄の所有であったが、全室郵便車は逓信省郵政省が所有する「私有車」であった。
法令上の根拠

郵便物運送委託法は、郵便物運送等を運送業者等に委託する場合に関し、契約による場合とは別に、総務大臣の要求があるときにしなければならない行為を定めている。

このなかで、鉄道により運送事業を営む運送業者(鉄道事業者)は、総務大臣[注 1]の要求があるときは、定期の列車に、郵便物の運送に必要な設備を有する車両(郵便車)を連結して郵便物を運送しなければならないとされており、また、必要な設備の維持、供給が求められている。かつてはこの規定に基づき、幹線や準幹線の長距離の定期旅客列車(主に普通列車急行列車)や荷物列車など多くの列車に郵便車が連結され、さかんに郵便物の運送が行われていた。

郵便車は日本国有鉄道以外に、東武鉄道秩父鉄道小田急電鉄南海電気鉄道近江鉄道島原鉄道鹿児島交通など一部の私鉄でも運行されていた[2]。ただし、私鉄では専用の郵便車は少なく、荷物車と兼用した合造車がほとんどであった[2]
歴史

起源については、明治時代鉄道開業初期にまでさかのぼるといわれており、正式な開始は1872年(明治5年)6月13日となっている[3]。当初は単に郵便物を運ぶための手段であったが、1892年(明治25年)には、専用の車両が作られ、車内で郵便物の仕分けなどを行うようになる。以来、全国に郵便車が走り、東京駅上野駅大阪駅など主要な鉄道駅では郵袋(行き先別に仕分けした郵便物を収納した麻袋で、「票札」というあて先郵便局のタグがついていた)、小包の積み下ろし作業が行われ、各地に郵便物を運んでいた。郵便車は各鉄道郵便局の職員が乗り込んで、郵便局としての機能の一部を持ち、車体側面に設けられた投函口[注 2]と駅のポストに投函した郵便物では、あて先方面に向かう郵便車内で消印が押されることが多かった。この消印を「鉄郵印」と呼ぶ。

専用の郵便車は、戦前は逓信省、戦後は郵政省が所有していたが、荷物車あるいは座席車またはその両者との合造車も多く存在し、合造車の場合は国鉄など鉄道事業者が所有していた。車種としては客車が多かったが、クモユ141形電車など電車気動車にも存在した。郵政省の予算で製造するため国鉄の車両より設備がよく、特に車両冷房については同時代の旅客車両よりもいち早く取り付けられたものが多かった[4]。これは、車内で作業する職員の発汗による郵便物の汚損を防止するという目的があり、その構造上窓が少なく郵便物が飛ばされてしまう可能性があるため開閉式の窓も取り付けられず、前述の発汗によって水性インクで書かれた宛先が滲んでしまい判読不能(=配達不能)が相次いだことから冷房装置の取り付けが必須であったという背景もある。

鉄道郵便には主に3つの種別があり、職員が郵便車内で郵便物を区分けし集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしする取扱便、職員は乗務するが区分け作業を行わず集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしするだけの護送便、職員が乗務せず施錠したまま郵袋、小包を運ぶ締切便に分けられていた。

鉄道郵便車を使った輸送は、戦後の1970年代まで国内の郵便輸送の主役で、幹線や亜幹線に郵便車を連結した列車が多数運行されており、郵便局の立地も鉄道輸送に対応していた。例えば東海道本線では神戸方(下り)の先頭に郵便車が連結されたため東京・名古屋・京都・大阪の各中央郵便局はそれぞれの駅前の神戸方に立地しており、郵便車での受け渡しが便利なようになっている。

郵便番号体系も鉄道輸送を前提とした設計がなされ、今も一部にその名残がある。事例としては、田原本局奈良県磯城郡田原本町)が王寺局(同北葛城郡王寺町)より分岐した枝番になっている、愛知県北設楽郡豊根村富山(旧富山村)は静岡県浜松市天竜区の水窪郵便局の枝番で現在でもJR飯田線を経由し集配を行なっている、小牛田局宮城県遠田郡美里町)から古川局(同大崎市)へ分岐していた、などがある。

1971年昭和46年)をピークに飛行機高速道路網の発達でシェアを落とし、1984年(昭和59年)1月末を以て取扱便の休止、1986年(昭和61年)9月限りで残されていた護送便・締切便も休止となり、郵政省が所有していた鉄道郵便車は廃車された。これにより郵便車を使用した鉄道郵便輸送は全廃となり、コンテナ締切便(当時は全国で14便)が残るのみとなった[5]。郵便輸送全廃に伴い廃車となった郵便車のなかには、郵政省所有だったため転用が利かず、クモユ143形や一部のスユ15形の様に製造から4年しか使われなかったものもある。郵政省としても自省の国有財産を鉄道車両だからといって無償・格安で国鉄に譲渡するわけにはいかず、国鉄も翌年に分割民営化を控えており、特定地方交通線や荷物輸送の廃止などで車両が大量に余剰となっていた時期である。また、転用に際しては扉や窓の増設、座席や冷暖房装置の取り付けなど多額の改造費がかかるため、国鉄も引き取るメリットが存在しなかった[注 3]

なお、その後の事情の変化(瀬戸大橋青函トンネルの開通など)により、2009年平成21年)現在では日本貨物鉄道(JR貨物)のコンテナ貨物列車によって、航空禁制品[6]ならびに特に速達性の要求されない郵便物が鉄道輸送されている[7]。また、宅配便業者の一部は貨物鉄道を使用しており、佐川急便日本貨物鉄道(JR貨物)によるスーパーレールカーゴのようなチャーター便も存在している。

2006年(平成18年)、新越谷郵便局(旧:郵便事業新越谷支店)が鉄道コンテナ輸送の利便性を考慮して越谷貨物ターミナル駅の至近に開局し、その立地を生かして2007年(平成19年)以降は冊子小包等の大量差出の引受を担当している。
日本の郵便車
電車

モユニ2(荷物郵便合造車)


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