郵便業
[Wikipedia|▼Menu]

郵便(ゆうびん)とは、郵便物を送達する(送り届ける、郵送(ゆうそう))制度のことである。また、郵便物のこと[1]日本の郵便配達の様子
概説

広辞苑では「信書書状はがき)その他 所定の物品を内・国外へ送達する通信制度」と説明している[2]。つまり、郵便とは郵便物を送達する仕組み・制度のことであり、(俯瞰してみれば)通信制度(通信システム)のひとつである、というわけである。

また「郵便」は郵便物略称として用いられることもある[2]

各国の郵便で基本となっているのは、定められた寸法や重量を守った郵便物に宛先を明記し、郵便局等において、寸法重量カテゴリごとに一定の料金を支払うと、郵便事業者が宛先へと配達してくれる、というものである。また同様に、通常の速さ(日数)で送るはがき封書などは、わざわざ郵便局に足を運ばなくても、郵便物に料金相当分の切手を貼付し郵便ポストに投函すれば、郵便事業者がポストを定期的に巡回しておりそれを集めて郵便局へ運び、その後は郵便局であずかった郵便物と同様に、宛先まで送達する、という仕組みもかなり一般的である[注 1]

郵便物の宛先(送達先)は、企業などの所在地個人住所などが指定されることが一般的で、その場合、企業や個人の郵便受けに届けられる。また宛先には、郵便局の私書箱が指定される場合がある。この場合は、郵便物は特定の郵便局の特定の箱に届けられ、受け取り人のほうが適宜、都合の良い時に、その箱へと出向いて郵便物を受け取ることになる。

次節から述べる郵便史については、郵便・飛脚の区別をふくめ、どこを始まりとするかは明確ではない。タクシス郵便はおそらく万国郵便連合につながるから原点とされ、またペニー郵便制度はイギリスの造船力・海運力が世界展開を可能にしたから始点と考えられる。英国内についていえば、廉価なペニー飛脚は利便性においてもペニー郵便制度に遜色はなかった。各国史におけるそれぞれの郵便史は様相が異なる。日米の郵便史コレクションは各国の節に譲る。

なお、ウィキペディアには「郵便を題材とした作品」というカテゴリーが存在する。
前史

僧院飛脚マナスティック・ポストは、各地の教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった。教皇庁と各僧院が僧侶使者に立て、ネットワーク[要曖昧さ回避]化したのである。ヒエラルキーに基づいた意思伝達が飛脚によって行われた。クリュニー修道院クリュニー会を頂点に、飛脚制度を改革して中央集権を果した。布教に必要な信頼を得るため、飛脚は市民の信書も運んだ。臨時のアビニョン庁ですら官僚制と飛脚は充実していた。教皇庁の通信は商業ルネサンス期に民間飛脚へ変わってゆく[3]

中世大学の定期通信は大学飛脚メッサジェ・ドゥ・ル・ヴェルシイテが担った。とりわけパリ大学の制度が秀逸であった。学生が出身ごとにつくった同郷会ナシイオは、大学の財政管理や対外折衝に参画する一方、パリ市内の名望家に飛脚の運営を委ねた。飛脚は管理職のグレート・メッセンジャーと、実際に輸送するフライング・メッセンジャーに分かれた。前者は大学の教授・学生と等しい優遇措置を受けた。十分の一税塩税、ワイン税、通行税、その他諸税の免除であった。グレート・メッセンジャーは大学とナシイオに収益の一部を還元した。彼らは金融を手がけるほどの余剰資金に恵まれた。優遇措置は国王と市民の負担となり、何度も争いがおきた。パリ大学の飛脚は何世紀も続いたが、1720年に12万フランで国有化された[3]

11世紀 - 12世紀の商業ルネサンスに貢献した飛脚は、地中海/北欧の商業圏とそれらの交流経路で活躍した。1290年、トゥルン・ウント・タクシス家(英語版)の祖オモデオ・タッソベルガモ飛脚を整備した(カメラータ・コルネッロも参照)。彼はヴェネツィア共和国へ進出し、1305年にヴェネツィア使者商会をつくった。共和国はタッソ一族のためにローマ教皇庁と折衝し、彼らが教皇庁の支配地域で飛脚を営む権利を認めさせた。彼らの飛脚はフランクフルト・マドリード・バルセロナまでも走った。スペインは一族が後に郵便事業を営むときからスポンサーとなる。使者商会は1436年まで市内飛脚と競合した。一方、ハンザ同盟の飛脚も国際的だった。ブレーメンでは12世紀半ばから飛脚制度が敷かれた。16世紀 - 17世紀にはリガ・ニュルンベルク・アムステルダム・ヴェネツィア・ロンドン・ウィーン・プラハまでも、発着時刻を守って運営された[3][4]

ドイツ騎士団国マルボルクを築いた当初、飛脚を抱えていなかったので、騎士自らが伝令を務めた。急用でなければ僧院飛脚を利用した。やがて騎士の伝令は、ウィティングという土地の者と協力して飛脚網を張った[3]

シュトラスブルクは10世紀 - 11世紀に都市飛脚を整えた。これは公私混用された。1322年の同市の都市法には市の書記局に勤務している誓約した飛脚が登場する。1443年の文書によると3名の飛脚がおり、2年毎に8エレの衣服用の布と毎年靴修理のための5シリングを報酬の他に受け取ることになっていた[5]。14世紀末のケルンでは公私独立した制度をもっていた。民間の方は市の中央に詰め所が設けられ、郵便ポスト兼郵便局となっていた。フランクフルトの飛脚は1385年で、アシャッフェンブルクコブレンツ・ケルン・ジーゲンなどへ走った。騎馬飛脚はブレーメンやシュターデにも時間を守って往来した。飛脚の肖像が残っており、パスポート代わりに帝国の紋章をつけていた。文箱は木製だったり、ペットボトルサイズの壺に変わったりしたが、15世紀に銀製の箱になった。槍を携帯し、野犬と強盗から身を守る他に濠を飛び越えるのにも使った[3]
歴史

近代郵便の原点は、1516年からドイツ・イタリアの名門一族の人物フランチェスコ・デ・タシス1世が、Thurn und Taxisを設立・運営する中でヨーロッパ全域を対象に行ったものである。この一族は、近年の郵便学における研究対象として筆頭である。なお、トゥルン・ウント・タクシスの郵便業が角笛を使うようになったのは、1615年のことで、現在でもドイツ郵便はラッパをマークとしている[6]

商業ルネサンス以降の商用飛脚は契約書等の交換を円滑にした。保険証券が交換されて海上保険が発達した。この中世すでに貿易決済をする銀行が存在し、これらの間を手形割引された輸出手形が往来した。銀行が割引で稼ぐ行為は第5ラテラン公会議で追認された。飛脚によって所要時間が相当に異なり、満期は鈍行に合わせて決められた。メディチ家フッガー家為替レートを調べるために高給の銀行飛脚を利用した。地中海/北欧の商業圏において結節点にあたるリヨンでは、年に四回開かれる大市が手形交換所となっていた。フランスの全209銀行のうち169行が参加し、エキュ・ド・マルクという仮想基軸通貨を用いて決済された。大市で決まった為替レートは銀行飛脚で知ることができた。フィレンツェ出身のジャン=バティスト・ヴェラサンという人物がリヨンの飛脚を取り仕切っていたが、リヨンの銀行家に訴えられた。このような銀行飛脚は教皇庁や国王の文書も運んだ[3]

1657年にイギリス政府は郵便を国営事業にした[7]。これは1682年に後の事業と合体する。

ロンドンでは15世紀に外国商人が飛脚を運営していた。外国商人として、ハンザ商人・フランドル商人・イタリア商人がいた。1496年、イギリスとネーデルラントは通商条約を結んだ。両国の君主は、重商主義政策をとるヘンリー7世 と、帝国郵便の庇護者フェリペ1世であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef