郭沫若
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郭沫若
人物情報
生誕 (1892-11-16) 1892年11月16日
光緒18年9月27日
四川省嘉定府楽山県
死没1978年6月12日(1978-06-12)(85歳)
中華人民共和国北京市
学問
研究分野文学歴史学考古学
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郭沫若
職業:政治家・文学者・考古学者・歴史研究者
各種表記
繁体字:郭沫若
簡体字:郭沫若
?音:Gu? Moruo
和名表記:かく まつじゃく
発音転記:グオ・モールオ
英語名:Guo Moruo
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郭沫若詩碑(岡山後楽園)郭沫若の彫像(北京市)

郭 沫若(かく まつじゃく)は、中華民国中華人民共和国政治家文学者考古学者歴史学者。中国の近代文学・歴史学の開拓者の一人。

原名は郭開貞で、開貞は、沫若はにあたる。は「鼎堂」。執筆時に用いた筆名は多く、高汝鴻・麦克昂・易坎人・杜頑庶・杜?などである[1]
生涯・人物
少年期

1892年11月16日、地主である郭家の8番目の子として四川省嘉定府楽山県に生まれる[2]。郭沫若には出生にまつわる一つの逸話があり、母親が彼を身篭った際に不思議な豹の夢を見た経験から、「豹の生まれ変わり」として「文豹」と名付けられた[3]。故郷である楽山が大渡河(沫水)と雅河(若水)が合流するところにあることから、郭沫若は後年、この二本の河の古称をとって自分のペンネームとした[4]

郭沫若はまだ物心のつかない頃から母親の啓蒙教育を受け、漢詩の手ほどきを受けた。この影響で学問に目覚めた彼は、四歳半にして郭家の中に開かれた家塾で兄達と共に勉強がしたいと自ら両親に申し出た[5]

家塾での厳しい教育は基本的に科挙の試験に必要なものであったが、当時中国には近代化の波が訪れ、学校では洋学が浸透し、古典教育の見直しが計られ科挙も廃止された[6]。近代式教育を行う学堂が成都に次々とできる中、郭家の家塾にも変化が起こり、近代的な書籍をテキストに取り入れ始めた[7]

1906年の春、15歳になった郭沫若は嘉定にある高等小学校に入学する。大自然に囲まれた嘉定での多様な経験は、後に彼が詩人となるための感性を育み、この地は郭沫若の原点となった[8]。高等小学校では様々な近代的な教科を勉強したが、興味も持ったのはやはり幼少期から学んでいた古典であった。中でも今文学派の影響を受け、『史記』の解釈も試みた[9]

1907年の秋、嘉定中学校に入学する。西洋の書物や日本への留学経験を持つ兄達の影響から、郭沫若はこの頃から海外への興味を示し始めた。しかしその夢を叶える術がなく、彼は自暴自棄に陥り、精神的に荒れた郭沫若は遊びと詩作に走るようになる。そんな時期に郭沫若はさらに腸チフスと他の病気を併発し、後遺症で生涯難聴となる[10]

1910年、郭沫若は成都高等学校学堂分設中学校に編入するにあたって、嘉定から成都に移住する。同年、北京・天津で国会開設請願運動が起こる。瞬く間に全国に広がり、郭沫若も運動に参加するも失敗に終わり、一時退学の仮処分を受ける[11]
日本留学

1914年、中高生時代の苦悶と1912年の不本意な結婚に苦しめられた郭沫若は日本へ留学する。留学前、天津陸軍軍医学校の試験を受験。実際は医学を学ぶ意志は無く、現実から逃れる為の選択であったが、日本へ留学してから郭沫若は真面目に医学を勉強しようと考えるようになり、第一高等学校予科に入学[12]して1年間学んだ[13]。その後、3番目の成績で卒業すると岡山第六高等学校第三部医科に配属される。岡山に移住した郭沫若は、この地の風景と故郷を重ね合わせて懐かしんだ。

1918年9月、九州帝国大学医学部に無試験で入学する。医学部での解剖実習がきっかけで創作意欲を抱き始めた。最初の小説「髑髏」を構想したり、外国語の授業で読んだ文学作品から、小学校の頃から興味があった文学への意欲が再燃、郭沫若は文学への思いに燃えていた。何度も医学をやめようと考えていたが、難聴により打診と問診がうまくいかず、医業に従事するには大きな支障となる事から、ついに医師への道を諦めざるを得なくなる。熱狂的に詩歌創作を行なっていた郭沫若は、そのまま文学の道に進むこととなった[14]
執筆活動

1921年、郭沫若はついに大学を一時休学し、創造社の設立の準備を始める。上海泰東書局で編集の仕事をしながら、創造社成立後の機関誌出版の作業にも取り掛かった。そして同年7月、文学結社創造社を設立した[15]。この設立の仲間は日本留学の友人である、成?吾・郁達夫・張資平らであった[16]

1922年8月、処女詩集『女神』を発表。文学史において、『女神』は五四時期浪漫主義思潮の代表作というのが定評となっている。郭沫若の新体詩は中国近代詩歌に確実な礎を築くこととなった[17]

1923年3月、郭沫若は大学を卒業する[18]も、以来医療に携わる事はなかった[15]

その後国民党に参加するも、反帝国主義運動によって発生した五・三〇事件で左傾化した。北伐軍の総政治部主任となるが、1927年?介石と対立後に南昌蜂起に参加し、直後に中国共産党に加入。?介石に追われ、1928年2月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構え、中国史の研究に没頭する。『中国古代社会研究』、『両周金文辞大系考釈』、『我的幼年』などを執筆した。1937年盧溝橋事件が起こると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加した。1942年重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。1945年には彼なりの古代の思想家研究の集大成『十批判書(中国語版)』を書き上げた。

1946年国共合作のための協商会議に参加。決裂後に内戦反対運動を推進し、戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院の初代院長、1950年に全国文学芸術連合会主席、1954年には全人代常務副委員長に就いた。1958年共産党に入党。1963年中日友好協会名誉会長。文学・史学の指導に努めるが、反右派闘争以降は発言や作風が毛沢東に迎合するようになる。しかし毛沢東は郭を嫌い抜いており、迎合は実らず、次々に彼と彼の家族は迫害されていくことと成る。人民共和国建国後の作品には、『蔡文姫』『武則天』などがあり、いずれも北京人民芸術劇院によって上演された。特に『蔡文姫』は焦菊隠の演出が高く評価され、話劇の代表作の一つとして21世紀の今日まで繰り返し上演されている。
文革期

文化大革命発生直後の1966年4月14日全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き尽くすべきで少しの価値も無い」とする「焚書発言を行った[19]。既に呉ヨ廖沫沙らが打倒されるなか自身を守るための自己批判であったが、毛沢東は許さず、過去に郭沫若が『十批判書』で毛沢東が尊敬する秦の始皇帝を批判し、毛沢東が嫌いな孔子を褒めたことを不快に思っており、中国の国会に当たる「中国共産党第八届中央委員会」の「十二中全会」(1968年)の閉会式(同年10月31日)で列席していた郭を名指しで「そこにいる郭老人と范老人は孔子を崇拝しているようだな。


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