郭松齢
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郭松齢

プロフィール
出生:1883年光緒9年)[1]
死去:1925年民国14年)12月25日
中華民国奉天省遼中県
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府承徳県
職業:軍人
各種表記
繁体字:郭松齡
簡体字:郭松?
?音:Guo S?ngling
ラテン字:Kuo Sung-ling
和名表記:かく しょうれい
発音転記:グオ ソンリン
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郭 松齢(かく しょうれい)は、清末民初の軍人。北京政府奉天派の有力軍人である。初期は中国同盟会、護法軍政府でも活動したことがあり、北方各軍の中では異色の経歴の持ち主である。は茂宸。祖籍は山西省汾陽県
事跡
中国同盟会、護法軍政府での活動

1905年光緒31年)、奉天陸軍小学堂に入学する。成績優秀であったため、翌年に陸軍速成学堂へ送られている。1907年(光緒33年)卒業した。北洋陸軍第3鎮で実習を積み、その後、奉天に戻って盛京将軍衙門衛隊哨長に任命された。1909年宣統元年)、四川省に転任して衛隊管帯に任命された。この時、方声濤・葉?の紹介により、中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)、四川省で革命派による蜂起、それに続く混乱が発生すると、郭松齢は奉天に戻り、革命を画策した。[2]しかし、趙爾巽張作霖の取り締まりを受けて逮捕、収監されてしまう。同期学生たちの支援で、辛うじて釈放された。[3][4]

1912年民国元年)、北京将校研究所に入学する。優秀な成績で卒業した後に奉天へ戻り、都督府少校参謀に任命された。1913年(民国2年)秋、北京の中国陸軍大学深造班(研究班)に第3期生として入学する。1916年(民国5年)に卒業し、北京講武堂教官に任命された。1917年(民国6年)7月、孫文(孫中山)が護法戦争を開始すると、郭はこれに参加し、韶関講武堂中校教官となった。この時、孫と対面し、桂軍(広西軍)の台頭への対策を巡って協議したことがある。しかし1918年(民国7年)5月、護法軍政府が7総裁制に改組されて孫文が事実上失脚したため、郭は失望して奉天へ引き返した。[5][6][4]
奉天派の有力軍人へ

奉天に戻ると、郭松齢は、陸軍大学の同級生だった督軍署参謀長秦華の推薦により、奉天督軍署中校参謀として任用された。1919年(民国8年)2月、張作霖が東三省陸軍講武堂を再建すると、郭は戦術教官として任用された。この時、張学良が講武堂で学習しており、郭の優れた能力・識見に敬意を抱いた。1920年(民国9年)春に張学良が講武堂を卒業して、巡閲使署衛隊旅旅長に任命される。その際に張学良は、父に依頼して、郭を同旅参謀長兼第2団団長として起用した。[7][8][4]

郭松齢は参謀長として軍隊の訓練に従事し、まもなく張学良の衛隊旅は、奉天派でも屈指の精鋭部隊になった。同年7月に安直戦争が勃発する。郭は張作霖から先鋒司令に任命されて直隷派側として参戦し、天津小站で安徽派の2旅を殲滅する功績を挙げた。その後も、郭は東北で匪賊討伐に貢献し、次第に張作霖からも信任を得るようになる。[9]

1921年(民国10年)5月、張作霖が蒙疆経略使を兼任し、奉天陸軍を10個混成旅に拡充する。その際に、張学良が第3混成旅旅長に任命され、郭松齢は第8混成旅旅長に抜擢された。[8]この第3旅と第8旅は、連合司令部を組織している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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