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部落問題(ぶらくもんだい)は、明治より前の主として江戸時代における厳しい身分制度の下で下に置かれ差別された身分の人々、さらには、それらの人々が身分制社会の下ではしばしば一定地域に居住することが義務付けられていた為そういった地域の出身者に対する差別あるいはそれを基に発生する諸問題である。「同胞融和(どうほうゆうわ)」から略して、同和問題(どうわもんだい)とも称される。同和利権問題や差別自演事件らも含まれる[1][2][3]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
概要
出典検索?: "部落問題"
日本史において、中世から近世にかけて穢多・非人(えた・ひにん)と言った賤民身分が存在していたが、とくに江戸時代には幕藩体制の強化・維持を目的にそれまであった偏見等を利用して身分制度の固定・強化が図られ、これらの身分制度が政治的・人為的に作成・強化されていったと言われる[4]。1871年8月28日に明治政府は維新後の近代化改革の一つとして国民国家形成のため賤民制度を廃止し、他の身分と同じく「平民」に編入するために、「太政官布告」として解放令(「賤称廃止令」、「被差別身分廃止令」とも)を布告した[5]。しかし、戦前から部落差別解消のために尽力していた北原泰作によると、スラム街のような景観のために旧穢多・非人居住地域の区別が目に付きやすかった関西では、特に元の平民が旧穢多・非人と同一の身分とされることを嫌い、周りの者が彼らを「新平民(しんへいみん)」と称すなど、差別が根強く残ったという。とくに解放令布告直後はこれに反発する周辺住民から激しい一揆が起こり、多数の死者を出した地域もあった[6][7]。これについては、あくまで一般的な話となるが、もともと江戸時代には、一方が一揆等で蜂起したときにしばしば他方が藩主側からその鎮圧協力を命じられ、それぞれに死者を出すこともあったという形で、為政者側に巧みに利用され、互いに憎しみを募らせていくといった歴史があったことが影響したとも言われている。その他に、農民らと異なった職能集団として存在していたものが解放令によりこれまで通り続くとは限らなくなり、ただでさえ維新による激しい激動の中で農民らが新たな経済的な利害対立や競争に晒される可能性が増大、将来不安に駆られていたことを指摘する見解もある[8]。
1961年12月7日、池田勇人内閣総理大臣は同和対策審議会に対し 「同和地区に関する社会的及び経済的諸. 問題を解決するための基本的方策」について諮問、1965年8月1日同審議会は答申で以下のように述べた。「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。」[9]
しかし、少なくとも戦後の高度成長期以降は、被差別部落地域、戦後の同和地区を忌避する理由が変遷したと主張する人々もいる。第二次世界大戦後の経済発展と莫大な税金が投入された部落対策事業によって、同和地区と指定された旧穢多・非人部落がしばしばスラム街のような地域であったのが近代化し、地区によっては逆に周囲よりインフラ整備されていったともいわれる。一方で、伝統的な差別意識やそれに基づく具体的な差別行動も強固に残っていたため、それに反発して被差別者側から部落解放同盟などの糾弾・吊し上げといった激しい対抗活動も起きていた。これに対し、むしろ部落解放同盟関係者による圧力や威迫があらたな「差別」を呼ぶようになったということを強調する人々もいる。北原は1967年の第1回部落解放研究全国集会で「部落差別は解消しつつある」とし、高度経済成長に伴う日本社会の近代化は部落差別解消に貢献しているとして、逆に部落解放同盟が糾弾・吊し上げ活動による利権確保に重きを置いた逆差別利権団体に変節したと批判するようになった。1975年9月には国民融合を妨げているとして解放同盟から離脱し、「国民融合をめざす部落問題全国会議」を結成したと著書に綴っている[10]。
1968年には1872年に作成された壬申戸籍が他人の身辺調査、つまり被差別部落民かどうかを調査するための手段として利用されようとしていた事件が発覚した。この事件を受けて、民事局長の通達により壬申戸籍は閲覧禁止とされ、以後は法務局・市町村のいずれかで厳重に封印・保管されることになり、現在閲覧できる最も古い戸籍は明治19年戸籍までとなった[11]。その他にも、一流視されるような大企業が被差別部落視される地域の地名簿を入手しようとするなどのスキャンダルを起こしている[要出典]。
民主党政権の復興大臣(部落解放同盟副委員長) 松本龍が、口止め恫喝が報道されたことで世論の批判殺到で辞任させられた際には、2011年7月4日に共産党の小池晃議員は、「『書いたら終わりだぞ』というマスコミ恫喝は、部落解放同盟の地金が出たものでしょう」と述べている[2]。
部落解放同盟とその支持者ら、日本国政府、地方公共団体などが主張・提訴・改善・解決しようと取組む課題の総称となっているが、解決ではなく、同和対策事業が利権化し、「同和問題」(どうわもんだい)と呼ばれている。戦後にかけて同和対策事業が行われる中で、2003年に最早不要と国家的に同和対策の法律が廃止されたが、2016年(平成28年)に「部落差別解消推進法」という新たな同和法が復活して施行されたために、差別の固定化と永久利権化として批判されている。
小池晃も「同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すもの」とし、部落解放同盟による無法な利権あさりを批判し、またこのような批判を「差別」とされるのは完全な筋違いであると述べている[2]。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしながら、暴力団には被差別部落出身者が少なくないことから、部落差別問題は事実上暴力団排除条例という形で、現在もなお根強く残っている。[要出典] 伝統的な身分差別の意識の残存により差別対象となった集落の呼称、エタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、「被差別部落」、あるいは解放令の布告にもかかわらず未だ差別から真には解放されていないという意味で「未開放部落」などと呼んだことから、やがて被差別部落を略した呼び名として定着したという。 しかし、「部落(ぶらく)」は「集落(しゅうらく)」と同義であり、九州地方でも佐賀などで行政区の単位を示す部落の意味として使われる場所も多く、1920年5月14日付の九州日報においても、こと福岡県筑後地方で〈先月末より流行性感冒再燃し罹病や者百五十余名に達し部落民中病やまざる者なきの有様〉と集落の意味で用いられているなどしている[12]。 2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。
「部落」の概念