この項目では、郡山地域の町について説明しています。桜島地域の町については「桜島武町」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 鹿児島県 > 鹿児島市 > 郡山岳町
郡山岳町
町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度42分23.7秒 東経130度26分29.8秒 / 北緯31.706583度 東経130.441611度 / 31.706583; 130.441611
郡山岳町(こおりやまたけまち[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4][5]。旧薩摩国日置郡伊集院郷嶽村、日置郡下伊集院村大字嶽、日置郡郡山町大字嶽。郵便番号は891-1108[6]。人口は298人、世帯数は175世帯(2020年4月1日現在)[7]。 鹿児島市北西部、神之川上流域に位置する。町域の東端には神之川が流れており、それに沿って集落が形成されている[8]。北方には薩摩川内市樋脇町市比野、薩摩川内市入来町浦之名、南方に鹿児島市有屋田町、東方に鹿児島市西俣町、鹿児島市郡山町、西端には重平山があり、それを挟んで西方に日置市伊集院町上神殿、日置市東市来町養母にそれぞれ接している。 1957年までは町域内に郡山町立大谷中学校(旧:下伊集院村立大谷中学校)が所在していたが、郡山中学校に編入され廃止された[9]。 また、北部の東端を南北に鹿児島県道36号川内郡山線が通り、南部には鹿児島県道40号伊集院蒲生溝辺線、鹿児島県道309号山田湯之元停車場線が交差している。 嶽という地名は江戸時代より見え、薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであった[10]。万治2年(1659年)に島津光久が北郷氏の北郷久精に領地させ、明治時代まで北郷氏の領地であった[11]。村高は「天保郷帳」では545石余[10]、「三州御治世要覧」では476石余[11]、「旧高旧領取調帳」では496石余であった[10]。嶽村の石高は江戸時代初期から江戸時代中期にかけては減少傾向にあったが、江戸時代中期から江戸時代後期にかけて微増となっていた[12]。薩摩藩の門割制度における門として「伊集院由緒記」によれば20の門が存在していた[13]。村域内には鹿倉という島津氏の所有する山林があり[10]、伊集院郷の郷士が「行司」として監督を行っていた[9]。天保10年(1839年)には御救門割と呼ばれる検地が実施された[14][11]。また、薩摩藩は嶽村において銅の試掘を実施したが、試掘資金の調達が困難となり、銅脈を発見することが出来ないまま試掘は中止された[15]。 また、嶽村の上宮嶽について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には以下のように掲載されている[16]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 上宮嶽 嶽村にあり、當郷第一の高山なり、上宮嶽と號するは、往古嶽上に熊野権現宮あり、因て名を得たり、今嶽を距ること辰の方十町許、神の園といひ、人家聚落の所、熊野鎮座す、是嶽より遷祀の宮といひ傳ふ、—三国名勝図会巻之八 明治時代初期の「鹿児島県地誌」には、嶽村は人口543名であり、村の中央に小学校が所在していたと記載されている[17]。小学校はその後嶽簡易科小学校を経て[18]、1892年(明治25年)に下伊集院村立嶽尋常小学校[19]、1913年(大正2年)には下伊集院村立大谷尋常小学校に改称した[20]。また、江戸時代から嶽村は武士の比率が高く、明治時代にも多くの武士が居住していた[21]。 1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、伊集院郷の北部の区域にあたる苗代川村、野田村、神之川村、宮田村、寺脇村、上神殿村、嶽村、下神殿村、桑畑村、麦生田村、有屋田村の区域を以て日置郡下伊集院村が成立した[22]。
地理
山岳
上宮岳
河川
神之川町域の北部に聳える上宮岳を源流とする河川である[9]。
歴史
近世の嶽
町村制施行以後旧下伊集院村における嶽(グレー)の位置