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郡司 成忠
郡司成忠の肖像写真
生誕1860年12月28日
死没 (1924-08-15) 1924年8月15日(63歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1882年9月 - 1893年1月
1894年11月 - 1895年3月
最終階級 海軍大尉
除隊後探検家
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郡司成忠郡司成忠
郡司 成忠(ぐんじ しげただ/なりただ[1]、万延元年11月17日(1860年12月28日) - 大正13年(1924年)8月15日)は、日本の海軍軍人、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力した。実業家の幸田成常
は兄。小説家の幸田露伴、日本史学者の幸田成友は弟。ヴァイオリニストの幸田延、安藤幸は妹である。長男の智麿は外交官となり、杉野鋒太郎と共に在ハバロフスク大日本帝国総領事館の初代領事となった。江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)生まれ。幼名は金次郎。幕臣幸田成延の次男であったが、幼少時に、嗣子がなかった親戚の郡司家の養子となる。しかし、明治維新に伴って御家断絶がなくなったことから養子の意味がなくなったため、郡司姓のまま幸田家に戻ることになった。
1872年(明治5年)、海軍兵学寮予科へ入学(この時、受験資格には年齢が不足していたので、年齢を詐称している)。海兵の卒業クラスは6期で斎藤實が同期生である。海軍軍人として海兵教授、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎、松本和が同期)卒業などの履歴を踏む[1]も、次第に千島拓殖を志すようになる。当時の千島は、ロシア帝国との国境地帯として一部の人間の間で重要視されるようになっていたが、厳しい気候条件などもあって日本政府はあまり顧みていなかったのである。郡司の千島拓殖計画は、海軍下士官の退職者の間で次第に噂になっていき、郡司の元には千島拓殖の希望者が集まるようになっていた。 1892年(明治25年)、郡司は千島移住趣意書を海軍当局へ提出する。しかし、海軍上層部はこれを許可しなかった。同時に郡司が希望していた、小艦「露天号」の貸下げも軍は拒否している。この理由について綱淵謙錠は、ロシアに対する遠慮があって、海軍が公式に千島へ向かうことはできなかったのではないかと推測している[2]。
第一次千島拓殖
出発までの経緯