郡上八幡城
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岐阜県
郡上八幡城
別名八幡城、積翠城、郡城、虞城
城郭構造平山城
天守構造なし
独立式層塔型4層5階(昭和8年1933年木造模擬)
築城主遠藤盛数
築城年1559年永禄2年)
主な改修者遠藤常友
主な城主遠藤氏、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏
廃城年1869年
遺構曲輪石垣
指定文化財岐阜県史跡
郡上市有形文化財(模擬天守)
再建造物模擬天守
  建面積118.98u(35.99坪)
  延面積309.11u(93.5坪)
  高さ17.18m
隅櫓
  建面積22.09u(6.68坪)
  延面積22.09u(6.68坪)
  高さ3.72m
正門・塀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分11.82秒 東経136度57分41.23秒 / 北緯35.7532833度 東経136.9614528度 / 35.7532833; 136.9614528座標: 北緯35度45分11.82秒 東経136度57分41.23秒 / 北緯35.7532833度 東経136.9614528度 / 35.7532833; 136.9614528
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郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある日本の城城跡は岐阜県指定史跡。復元天守は郡上市指定有形文化財。また続日本100名城第141番に選ばれている。
概要

戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川[1]の対岸にある赤谷山[2]赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。

その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。

その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。

現在の天守は、大垣城[3]を参考に1933年昭和8年)に木造4層の模擬天守として建設され、隅櫓2基と築地塀も整備された[4](模擬天守としては全国的にも珍しい木造で、本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。

なお、明治期に三の丸跡地に安養寺が移転した。1919年(大正8年)の郡上大火で安養寺は焼失したが大火前の位置に再建された[4]。城山中腹にあった岸劔神社は焼失を免れ、その後、城山公園の整備により1942年(昭和17年)に北側に移転した[4]

1955年(昭和30年)8月30日に石垣などの城跡が岐阜県指定史跡[5]に、1987年(昭和62年)9月10日に模擬天守が郡上市有形文化財に指定され[6]、内部は歴史資料館などとして利用されている。

山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城のたたずまいや、城から見下ろす城下町の風景は大変美しい。作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。

日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。

2017年平成29年)4月6日、続日本100名城(141番)に選定された。

再建90周年を機に天守の耐震補強工事と展示内容の一新が行われ、2023年(令和5年)4月29日にリニューアルオープンした[7]

なお、現在は郡上八幡産業振興公社が管理しており、郡上青山家の家系の幸紀が公社職員として天守閣等の管理に従事している[8]
現存する建物遺構

二の門は競売にかけられ、使用されたが、その後、門扉部分が郡上市美並町根村・宝樹庵の庫裡御堂の正面の戸として移築され現存する。その他、本丸御殿の部材が善光寺に、城郭の部材が愛宕町の民家に、それぞれ用いられたと伝わるが、いずれも原型を留めていない。
歴代の城主

郡上八幡城主一覧表代数城主名官位・役職在任年号在任年数領地石高備考
初代
遠藤盛数(城主)永禄2年(1559)?永禄5年(1562)   3郡上郡永禄5年10月14日没
2代遠藤慶隆但馬守永禄5年(1562)?天正16年(1588)  26同上天正16年加茂郡小原に移封
3代稲葉貞通左京亮天正16年(1588)?慶長5年(1600)  12郡上・武儀郡4万石関ヶ原戦後、豊後臼杵へ
4代遠藤慶隆但馬守(藩主)慶長5年(1600)?寛永9年(1632)  32郡上郡2万7,000石寛永9年9月21日没 83歳
5代遠藤慶利伊勢守・但馬守寛永9年(1632)?正保3年(1646)  14同上正保3年6月28日没 38歳
6代遠藤常友備前守、大坂加番正保3年(1646)?延宝4年(1676)  30同2万4,000石、弟の常昭に2,000石・常紀に1,000石分知延宝4年5月4日没 49歳
7代遠藤常春右衛門佐延宝4年(1676)?元禄2年(1689)  13同上元禄2年3月24日没 23歳
8代遠藤常久元禄2年(1689)?元禄5年(1692)   3同上元禄5年3月30日没 7歳
9代井上正任中務小輔元禄6年(1693)   1郡上郡・越前大野5万石元禄13年12月16日没 71歳
10代井上正岑大和守、寺社奉行奏者番元禄6年(1693)?元禄10年(1697)   4同4万7,000石 弟・正長に和良郷3,000石分知元禄10年丹波亀山に移封  
11代金森頼時出雲守、奥詰・側用人元禄10年(1697)?元文元年(1736)  39同3万8,000石元文元年5月23日没 67歳
12代金森頼錦若狭守・兵部少輔、奥詰・奏者番元文元年(1736)?宝暦8年(1758)  22同上宝暦8年12月25日改易(宝暦騒動
13代青山幸道大和守・大蔵少輔・大膳亮宝暦8年(1758)?安永4年(1775)  17同4万8,000石安永8年10月30日没 55歳
14代青山幸完大膳亮、若年寄・奏者番・寺社奉行安永4年(1775)?寛政3年(1791)  16同上文化5年12月24日没 56歳
15代青山幸孝大蔵少輔・寺社奉行寛政3年(1791)?文化12年(1815)  24同上文化12年11月25日没 37歳
16代青山幸寛播磨守・大膳亮、奏者番文化13年(1816)?天保3年(1832)  16同上天保3年6月26日没 26歳
17代青山幸礼播磨守、西の丸大手門番天保3年(1832)?天保9年(1838)   6同上天保9年8月25日没 29歳
18代青山幸哉大蔵大輔・大和守・大膳亮、奏者番・寺社奉行天保9年(1838)?文久3年(1863)  25同上文久3年7月16日没 48歳
19代青山幸宜大膳亮・郡上藩知事文久3年(1863)?明治2年(1869)   6同上昭和5年2月5日没 77歳

歴史資料館の主な展示品
金の弩標
関ヶ原の戦いなどでの功績を認められ徳川家康から拝した。


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