? 鑒(ち かん、泰始5年(269年)- 咸康5年8月19日(339年10月8日))は、中国西晋・東晋の軍人・政治家。字は道徽。高平郡金郷県(現在の山東省済寧市金郷県)の人。子は??
・?曇。娘は??(書聖王羲之の妻)。孫は?超。後漢末期の御史大夫?慮の玄孫にあたる。最初は司馬倫に仕えていたが、病により職を退いていたため司馬倫の謀反(八王の乱)には加担せず処罰を免れた。その後の西晋の混乱を生き延び故郷に帰還した後、南方に渡り東晋の皇帝元帝に仕え、建国間もない東晋王朝の軍事面を支え続け、?州刺史、都督揚州江西諸軍事に任じられ長江下流域を本拠とした。?鑒の率いた軍団は「北府軍団」として、長江中流域に駐屯した陶侃や?亮の「西府軍団」と共に以後の東晋の軍事の主力となる。
後趙の石勒の侵攻を退ける一方で、元帝の後を継いだ明帝・成帝を支えて王敦や蘇峻の反乱鎮圧にも尽力、功績により車騎大将軍に昇進、都督徐?青三州諸軍事・?徐二州刺史も兼ねて北府軍団を首都建康近郊の広陵に移し、司空に昇進した。
咸和4年(329年)、広陵から京口に鎮座、北府軍団の拠点を京口に移した。
咸康5年(339年)に70歳で死去。次男の?曇が北府軍団を束ね、升平5年(361年)に亡くなった後は長男の??が引き継いだが、太和4年(369年)に??の息子の?超の画策で北府軍団の指揮権を桓温に奪われた。桓温は西府軍団も掌握しており、北府軍団も合わせて最大の軍事力を保有、東晋の有力者にのし上がっていった。
王敦の従弟で有力者王導と縁戚関係を結ぶため、彼の従甥の一人を娘婿に選ぶことにした。選ばれたのが後の書聖王羲之である。
伝記資料
『晋書』巻67 列伝第37
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