邪宗門_(高橋和巳)
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邪宗門
文藝』1967年3月号に掲載された広告
作者高橋和巳
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『朝日ジャーナル1965年1月3日号 - 1966年5月29日
出版元朝日新聞社
刊本情報
刊行『邪宗門』(上下巻)
出版元河出書房新社
出版年月日上巻:1966年10月15日
下巻:1966年11月15日
装幀片岡眞太郎
総ページ数上巻:320
下巻:324
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『邪宗門』(じゃしゅうもん)は、高橋和巳長編小説。『朝日ジャーナル』の1965年昭和40年)1月3日号から、1966年(昭和41年)5月29日号にかけて連載され[1][2]、大幅な加筆修正を施した上で、1966年(昭和41年)10月と11月に、河出書房新社より上下巻で刊行された[2]。文庫版は当初は新潮文庫、のちに講談社文庫朝日文庫河出文庫より刊行されている。

新興宗教団体「ひのもと救霊会」の、弾圧と滅亡の歴史を描いた小説である[2][3]明治中期に悟りを開いた下層農民の行徳まさを開祖とする教団が、二代目教主の行徳仁二郎によって教勢を拡大してのち、戦時下の弾圧を受け、最後には敗戦後、三代目教主の千葉潔に率いられた信徒たちが〈世なおし〉のために武装蜂起し、決定的な破滅に至るまでの、教団史の消長が描かれる[4]

分量は高橋の作品中、最も長い2,000枚に及び[1]、時間の流れは1931年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで、主要登場人物は30人、空間は戦前日本の勢力圏全域である樺太満洲国カロリン群島にまで広がる、規模雄大な作品である[5]
あらすじ
第一部

序章から第一部までの年代は、1931年(昭和6年)晩秋から、翌1932年(昭和7年)5月16日まで[6]

1931年(昭和6年)晩秋、母の骨壺を抱えた14歳の少年、千葉潔が「ひのもと救霊会」本部のある神部駅に降り立った[6][7]東北地方で発生した大飢饉の中、自らの母親の死肉を食らって生き延びた彼は[8]、骨を神部盆地の救霊会の墓に埋めてほしい、との母の遺言のため、飢餓に苦しむ生地を離れてやってきたのだった[7][注 1]。飢えた千葉潔は教団本部へ辿り着く前に、川べりの草むらの中で倒れるが、古参信徒の堀江駒に発見され、連れて帰られる[9]

既に同年の春、ひのもと救霊会は二代目教主の行徳仁二郎をはじめとする幹部や地区司祭ら9人が逮捕され、神殿を破壊されるという弾圧を受けていた(第一次弾圧)[6][10]。当主の真輔もこの弾圧により不在となっている堀江家で、千葉潔は駒、その義娘の菊乃、駒の孫の民江、教主の次女の行徳阿貴らに囲まれ、暗い過去に凍りついた心を、次第にほぐし始める[11]

教団では第一次弾圧後も、九州地区司祭の小窪徳忠が「皇国救世軍」として分離独立する事態となり、組織は崩壊の兆を見せ始める[12]。しかし千葉潔が教団へ来た翌1932年(昭和7年)春には、教主や幹事らが保釈され、組織の立て直しが図られた。また、神部絹糸のストライキも支援することとなり、一応の立ち直りを見せるが、五・一五事件に教団の信徒であり陸軍士官学校生でもあった植田文麿が参加していたことが発覚。警視庁は教団の閉鎖と、教主と一部・二部幹事全員の逮捕を命じる。そして同日の夜には原因不明の火災が発生し、教団は壊滅した(第二次弾圧)[13][10]

一方で教団の下働きをしていた千葉潔は[13]、教主の長女である行徳阿礼の鉛筆を盗んだ疑いをかけられて教団での居場所をなくし、密かに神部を去るが、実は最高顧問である加地基博から、天皇に宛てた「諫書」を託されていたのだった[7]。加地の指示に従い、千葉潔は書生の植田克麿と共に、伊勢神宮への参拝に訪れていた天皇に「諫暁」を実行する。しかし計画は失敗し、逮捕された克麿は発狂、加地は警官隊に包囲されて自害、千葉潔も教団に逃げ戻っていたところを逮捕されて、神部を去った[13]
第二部

第二部の年代は、1940年(昭和15年)春から、翌1941年(昭和16年)12月8日の開戦の詔勅まで。行徳阿礼を中心に、それぞれの本部員の生活をパノラマ風に描く章である[13]

非合法化され、信徒が40万にまで減少した教団は、教主の長女である行徳阿礼によって守られていた。逮捕された仁二郎や幹部らは小菅の刑務所に収監され、行徳阿貴は、堀江駒や民江と共に、四国行脚の名目で説法の旅に出ていた。またかつて収容されていた少年院を脱走した千葉潔は、第三高等学校の学生となり、ボート部の主将となっていた[13]。刑期を終えた植田文麿は、素性を隠して九州の炭鉱で働いていた[14]

1940年(昭和15年)春、「皇国救世軍」の小窪徳忠から、次男である軍平と阿礼の結婚によって、救世軍と救霊会とを合体させることの申し出がなされ、阿礼は悩む。そして千葉潔との再会を経て、翌1941年(昭和16年)4月、結婚を決意して九州へ赴く[15][16]。しかし、大政翼賛会に参加して戦時体制の中枢に接近しようとした皇国救世軍の計画は挫折し、阿礼が逡巡を重ねて選んだ自己犠牲も、完全な無意味となった[15]。12月8日に開戦の詔勅が宣布されると、神部の教団本部員たちはなぜか、「天皇陛下万歳」を三唱した[16]
第三部

第三部の年代は、敗戦後の1945年(昭和20年)8月下旬から、翌1946年(昭和21年)3月まで[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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