那須資之
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この項目では、那須氏(上那須家)12代当主について説明しています。同名の那須氏3代当主については「那須資之 (3代当主)」をご覧ください。

 凡例那須資之
時代室町時代中期
生誕不明
死没正長元年8月8日1428年9月17日[1]
別名太郎[2]
戒名関光院明海英東[2][3]
官位越後[2][3]
氏族那須氏(上那須家)
父母父:那須資氏
兄弟資之、資重、資朝?
上杉禅秀
氏資、資朝
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那須 資之(なす すけゆき)は、室町時代中期の武将那須氏(上那須家)12代当主。
略歴

那須資氏の子として誕生。応永21年(1414年)頃より弟・資重と対立し、那須家の分裂を招いた。

応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、義父である禅秀方に与し、鎌倉公方足利持氏の討伐を受けた。このような事情もあり、資重が持氏を頼って資之に抵抗を続けたので、資之は那須家の統一を果たすことはできず、資之の上那須家(居城・福原城)と資重の下那須家(居城・沢村城、後に烏山城)が以後暫く併存することになった。

正長元年(1428年)、死去。
脚注^ 『史料綜覧』第7編之907 552頁
^ a b c 『那須系譜』
^ a b 『諸家系図纂』

出典

『那須系譜』

『諸家系図纂』(那須系図)


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