那珂湊反射炉
那珂湊反射炉(2021年)
画像左が第一炉、右が第二炉
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情報
旧用途反射炉
建築主徳川斉昭
管理運営水戸藩
状態復元物が現存
高さ15 m 余[1]
竣工第一炉:安政2年(1855年)[1]
第二炉:安政4年(1857年)[1]
改築1937年(昭和12年)[2]
解体天狗党の乱(元治元年=1864年)[3]
所在地〒311-1223
茨城県ひたちなか市栄町一丁目10番 あづまが丘公園内[2]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度20分36.7秒 東経140度35分2.7秒 / 北緯36.343528度 東経140.584083度 / 36.343528; 140.584083 (那珂湊反射炉)
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[全画面表示]那珂湊反射炉関係地(水戸・ひたちなか)
那珂湊反射炉(なかみなとはんしゃろ)は、茨城県ひたちなか市栄町一丁目に存在した水戸藩の反射炉。海防のための鉄製大砲の鋳造を目的に、徳川斉昭が江戸幕府から多額の資金を借りて建設したもので、安政2年(1855年)に第一炉、安政4年(1857年)に第二炉が完成した[1]。ここで鋳造された大砲はおよそ20門に及び[7]、各地の台場に据え付けられた[1]。
反射炉として十分に稼働できないまま天狗党の乱で破壊されてしまったが、釜石鉱山・橋野高炉を開発する直接の契機となったことから、多くの研究者は、日本の製鉄業の端緒を開いたことに意義を見い出している[8]。 那珂湊(江戸時代は常陸国那珂郡湊村、後に那珂湊市)は東廻り航路の寄港地として、また常陸・下野の物資の集散地として水戸藩領内では繁華な地であった[9]。このため、藩は初代徳川頼房の頃から湊村を中心とした海防に力を入れており、2代徳川光圀は湊村日和山に異国船番所を置いた[9]。文政年間(1818年 - 1831年)にはたびたび異国船が常陸国沖合に現れた[10][11]。警戒を強める藩に対し、沿岸漁民は好奇心旺盛で、船に乗り込んではチェスの駒やナイフ、瓶詰のマスタードなどをもらって帰ってきた[10]。郷士格を持つ堀川興のように、藩の許可なく異国人と筆談したとして処分を受けた村人もいた[11]。 文政12年(1829年)、徳川斉昭が9代藩主に就任し、藩政改革に乗り出した[12]。斉昭は海防意識が高く、助川海防城を築いて山野辺義観を海防総司に任じた[13]。天保12年(1841年)には水戸城下の神崎に鋳砲所を建設し、助右衛門らに口径20 cm以上級の青銅製の大砲を約300門造らせた[14]。原料の青銅は藩領内の寺社からほぼ強制的に供出させたため寺社の不興を買うこととなり[15]、反斉昭派の勢力と結び付いて斉昭は一時謹慎を命じられたが、嘉永2年(1849年)に藩政への参与が許され、嘉永6年(1853年)の黒船来航後、海防参与に任命されて幕政にも参画するようになった[16]。 この間、嘉永4年(1851年)に薩摩藩が反射炉の建設に乗り出すことを斉昭は知った[17]。当時、水戸藩領内の銅が不足していたこと、鉄製大砲の性能が優れているという情報を得たこと、薩摩藩主の島津斉彬とは親しい間柄であったことから、斉昭は嘉永5年(1852年)に大工の飛田与七を鹿児島に送り[注 1]、鉄製大砲の鋳造技術を学ばせることにした[19]。
反射炉建設に至る背景