?山の戦い
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本来の表記は「?山の戦い」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

?山の戦い
戦争:?山の戦い
年月日:543年3月
場所:?山(現在の河南省洛陽市の北)
結果:東魏軍の勝利
交戦勢力
東魏軍西魏軍
指導者・指揮官
高歓
彭楽
段韶宇文泰
趙貴
賀抜勝
戦力
10万?
損害
?3万以上
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?山の戦い(ぼうざんのたたかい)は、中国の南北朝時代に?山(現在の河南省洛陽市の北)において起こった東魏軍と西魏軍の間の戦いである。
経緯

543年2月、東魏の北豫州刺史高仲密虎牢で叛き、西魏に降った。西魏の宇文泰は諸軍を率いて高仲密に呼応し、李遠を先鋒として洛陽に向かった。于謹が柏谷を攻撃して攻め落とした。3月壬申、西魏軍が河橋の南城を包囲した。東魏の丞相高歓は兵10万を率いて黄河の北側に到着した。宇文泰は軍を?上に退かせ、火船を上流から流して河橋を焼こうとした。東魏の斛律金張亮に命じて小艇100隻あまりに長い鎖を載せ、火船がやってくると鎖を引いて釘づけにし、橋を守った。

高歓が黄河を渡ると、?山に拠って布陣した。宇文泰は輜重を?曲に置いた。夜、西魏軍は?山を登って東魏軍の襲撃をはかった。高歓は斥候の報告で、この襲撃を察知していた。戊申の黎明、宇文泰の軍は高歓の軍と遭遇した。東魏の彭楽は数千騎を率いて右翼にあり、西魏軍の北側をついて敗走させ、西魏軍の本陣に突入した。彭楽が裏切ったという誤報が高歓のもとに届き、高歓が激怒するという一幕もあった。まもなく彭楽が戦勝を報告し、西魏の臨?王元柬・蜀郡王元栄宗・江夏王元升・巨鹿王元闡・?郡王元亮・・事趙善ら将軍佐官48人が東魏軍に捕らえられた。東魏の諸将は勝利に乗じて西魏軍を追撃した。彭楽は宇文泰を追ったが、宇文泰の金帯を取って本人を取り逃がし、高歓の叱責を受けた。

翌日、宇文泰は再戦を挑んだ。宇文泰が中軍を、趙貴が左軍を、若干恵らが右軍を率いた。西魏の中軍と右軍が東魏軍を破り、多くの歩兵を捕虜とした。高歓は馬を失い、赫連陽順が下馬して高歓に馬を渡して逃げさせた。尉興慶が高歓を守って戦死した。賀抜勝が高歓を追ったが、劉洪徽や段韶にはばまれて取り逃した。西魏の耿令貴は敵中に単独で突入し、乱刃を振るって多くの死傷者を出した。

いっぽう西魏の左軍の趙貴ら五将は敗れ、東魏軍が再び盛り返した。宇文泰もまた敗れた。日暮になって、西魏軍は全面的に逃走にうつり、東魏軍がこれを追った。西魏の独孤信と于謹は残兵を集めて反撃し、東魏軍の追撃を鈍らせて、西魏諸軍の撤退を助けた。若干恵は夜間の追撃を受けた。若干恵はおもむろに下馬し、料理人に食事を作らせて、食事を終えると「長安で死ぬのも、ここで死ぬのも、変わりはあるか」と言って、旗を立てて角笛を鳴らして、残兵を収容しながら悠々と帰還の途についた。東魏側は伏兵を疑ってあえて近づかなかった。宇文泰は関中に入り、渭上に駐屯した。

高歓は進軍して陝に入ろうとしたので、宇文泰は達奚武を派遣してこれをはばませた。高歓は封子絵の進言を容れて進軍を停止した。陳元康はこの機を逃すと後の患いになると諫めたが、高歓は聞き入れず、劉豊に数千騎で宇文泰を追わせるのみで、自身は東帰した。

宇文泰は自身の降格を文帝に申し入れたが、文帝は許さなかった。この戦いで西魏の諸将には功績がなかったが、耿令貴と王胡仁・王文達の功績は認められた。耿令貴の名を豪とし、王胡仁の名を勇とし、王文達の名を傑とした。
参考文献

資治通鑑』(中華書局,1956年)巻158 梁紀14

北斉書』(中華書局,1972年)

周書』(中華書局,1971年)

北史』(中華書局,1974年)


更新日時:2019年6月12日(水)11:54
取得日時:2019/07/25 07:25


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