還元主義(かんげんしゅぎ、英: reductionism、独: Reduktionismus)は、
日本で比較的定着している定義では
考察・研究している対象の中に階層構造を見つけ出し、上位階層において成立する基本法則や基本概念が、「いつでも必ずそれより一つ下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方のこと[1]。
複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別(一部)の要素だけを理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるはずだ、と想定する考え方
上記のような考え方・主張に対する否定的な呼称。要素還元主義とも言う[1]。
ただし、最近では次のような定義をされることもある。
(1) 異なる知識の領域や分科同士の関係、または (2)部分と全体の関係に対するいくつかの立場、 を指す語[2]。
またそれぞれの分野で(批判的な意味を込めずに)特定の立場や理論を指す代名詞として用いられることもある[3]。
「還元」に対応する英語は「削減」を意味するreductionであるが、これは概念や法則の多様性を減らすという意味で理解することができる[1]。なお、reductionという語は科学で一般に、例えば数学で「 "1+1" という式を "2" に書き換える」といったような単なる操作を単に指していう「簡約」など、広く使われている語であり、そういった場合は「概念や法則の多様性を減らす」という意味で理解することができない。 自然科学の領域では、最下位とされる階層は、原子から素粒子へと移り変わってきたものの、素粒子論が扱うような微視的世界と古典力学が扱うような巨視的な世界の間には、埋めることのできない理論的なギャップがあることは指摘されている[1]。巨視的階層の事物・事象を微視的階層に完全に還元することは、実際上は不可能である[1]ともされる。 還元主義に陥っていることが端的に表れている表現として「.....にすぎない」や「...にしかすぎない」というものがある[1][4][5]。還元主義に関してしばしば問題となるのが、この「?にしかすぎない主義(nothing but ...ism)」 とでも呼んだほうがよいような極端な主張である[1]。 還元主義の歴史は古く、古代ギリシャまで遡ることもできる。(→#歴史) 否定的に語られる還元主義だが、近代科学の発展にそれなりに寄与した面もある。(→#成功例) 近年では還元主義の難点を認識する人は増え、科学の領域でも「複雑系の科学」が生まれ、また「創発」など様々な概念を用いて、ものごとを理解しようという試みが続けられている。(→#難点の認識と改善の試み ) 尚、還元とは何を意味しているのか、何が何に還元されようとしているのかが曖昧なまま用いられることがある[6]。 スタンフォード哲学事典は専ら「生物学における還元主義」だけを項目として立てて記事にしているので本項とはいささかそぐわない点があるが、あえて紹介すると、そこでは還元主義を以下のように区別している。 樺島祥介は極端な還元主義を「盲目的な要素還元主義」と呼んだ[11]。ダニエル・デネットは「貪欲な還元主義」と呼んで区別した[12]。 突き詰めて考察すると、還元主義の問題は哲学の歴史と同じほどに古いともされ、古代ギリシャまで遡ることも可能だという。たとえば古代ギリシャの哲学者・自然学者らが、万物の根源(アルケー)について論じ、アルケーは水だ、土だ、などと論じたのもある意味での還元主義であるともいわれる。同じく古代ギリシャの原子論や四元素説なども、世界のすべてのものを「アトム」や「元素」に還元しようとするものであった[13]、とも言われる。デカルトは、動物は(人間とは異なり)還元的に、からくり人形(ある種の自動機械)として説明できるかも知れないと述べた。その想像図 (De homines 1622年) 近代においては、還元主義を生むきっかけとなった考え方は、デカルトにより1637年に刊行された『方法序説』の第5部において提示された。デカルトは、世界を機械に譬え、世界は時計仕掛けのようであり、部品を一つ一つ個別に研究した上で、最後に全体を大きな構図で見れば機械が理解できるように、世界も分かるだろう、という主旨のことを述べた。(ただし、デカルト自身は、正しく理解するためには一つたりとも要素を脱落させてはいけない、といった主旨のことも他のくだりで述べていることに注意する必要がある。)[14] デカルトが「分解し、網羅的に調べ、後に統合する」という考え方であったのに、後に別の人々によってこの前半の「分解」ばかりが強調され、しかも一部の要素だけに言及してそれだけで事足れりとする者が現れ、還元主義となってゆくことになった[要出典]。 1961年にエルンスト・ネーゲル ポール・オッペンハイム ケネス・シャフナーは、ネーゲルの理論的還元主義を修正した。シャフナーは「還元する理論」が「還元される理論」を修正した物であるという考えを取り入れ、この改訂モデルがより良く自然科学の還元を捉えていると主張した。例えばシャフナーは遺伝学の分子理論が発展したことによって、優劣の法則のような古典遺伝学の理論も物理化学の法則から引き出せるようになったと主張した。これはつまり、改定された分子遺伝学が古典遺伝学よりも正確だという主張である。ただし、シャフナーはそれによって古典理論が取り除かれるとは主張しなかった。彼は理論的還元が成し遂げられないときでも、還元は実り豊かかなのだと強調した。例えば、生物の分子構造を発見する努力は、高次レベルにおいてもしばしば有益だった、とした[16]。
概説
下位分類
スタンフォード哲学事典による下位分類
存在論的還元主義:"生命体は、それを構成する分子とその相互作用によってのみ存在する"と見なす考え方。生物学における存在論的還元主義は物理主義とも呼ばれる。それはどのような考え方かと言うと、例えば"生物学的特性は物理的特性に付随している"と見なすような考え方である。弱い存在論的還元主義は、現在の生物学者と哲学者の基本的な立場である。
方法論的還元主義:生物学的システムは最下層を調査することが有益だと見なす考え方[2]で、実験的な研究は分子およびバイオケミカル的な原因を対象とするべきだとする考え方[2]。複雑な全体を分解してパーツを調べることで全体を理解しようとする一般的に用いられている科学的手法[7]。全ての科学は物理学の用語で記述できる(または理想的にはそうされるべきだ)と見なす考え方は物理還元主義と呼ばれる[8]。例えば"生物は分子生物学と生化学によってもっとも良く説明できる"と見なす考え方。この立場は常に論争の的である。
認識論的還元主義または概念的還元主義:"ある領域に関する科学的知識は(通常高い領域のそれは)、それより下位の(根源的な)レベルの科学的知識に還元できる"とする考え方。
この認識論的還元主義は理論の還元(ある理論が別の理論から導き出せる)と説明の還元(高位の機能が低位の機能によって説明できる)に分ける事ができる、と述べる人もいる。理論の還元:以下の条件を満たす限り、ある理論T1が別の理論T2に還元できると主張できる[6]と内井は言う。(1)T1の基本的な概念は、すべてT2の概念によって定義可能である(2)T1の基本的な法則の全てが、T2内部の理論によって導き出されたT2の法則に翻訳できる(3)T2の概念と法則はT1の物より基本的である。この代表は熱力学と気体分子運動論の関係である、という。(ただし内井惣七は、これは「還元」ではなく「拡張」と呼ばれるべきである[9]と述べている)。説明の還元:理論の切り分け、理論の一般化、メカニズムや個々の事実の説明を含む。説明の還元は因果関係の説明であると仮定されている、という。高次の特徴はその構成部分の相互作用に基づいて説明される、とし、説明の還元は厳格な存在論的還元を必要としない、とされる[10]。生命科学ではメカニズムアプローチとして現在、理論還元主義に代わる強靱な立場に発展した[2]。
その他の下位分類
歴史