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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。
避諱(ひき)とは、君主や目上の者の諱の使用を忌避する慣習である。中国など東アジアの漢字文化圏にみられる。二字名の場合にどちらか一字を忌避することを偏諱(へんき)という。この項では中国の避諱を中心に記述する。 中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられていた(実名敬避)。特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱を口にしたり書いたりすることを慎重に避けた。ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには適宜諱に当たらない名前に改められ、更にはその諱字に通う音の字を改めること(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}嫌名(けんめい))さえも行われた。唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。ただし、「世民」のように複数字の諱は、片方の文字だけならば使用しても差し支えないとされることが多かった。また、広く使われ、禁じられると支障が出る字を諱に持つ者が皇帝に即位する場合は、即位と同時に改名する場合がある。清の仁宗と宣宗が、それに当たる(それぞれ「永」→「?(禺+頁)」、「綿」→「旻」へ改名)。 著名な例として、前漢の高祖の諱が「邦」だったために、漢の人々が「中邦」「相邦」を「中国」「相国」と言い換えた例、後漢の時期には光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた例、晋の文帝の諱が「昭」だったために晋の人々が歴史上の人物・王昭君を「王明君」と言い換えた例、清の聖祖康熙帝の諱「玄Y」を避け、世人が「玄孫」のことを「元孫」に言い換えた例や紫禁城の「玄武門」を「神武門」に改めた例が挙げられる。 ただし、現王朝の皇帝に関わる厳しい避諱と対照的に、前朝の皇帝の諱を世人が避けることはまずないと考えてよい[注釈 1]。そのため、文中に現れている避諱を利用して、ある書物が発行された年代を推定することが可能である。 皇帝でなくても儒教で聖人とされた孔子についても避諱が行われ、諱の「丘」を避けて「邱」に改めた例がある(人名の例では丘長春、地名の例では大邱(テグ))。 清朝の崩壊以降、中国には皇帝が存在しなくなった。そのため、国中がこぞって皇帝の諱を避ける必要はなくなった。
概要
避諱の方法欠画の例。清の康熙帝の諱である「玄」「Y」のそれぞれ最終の一画が省略されている。
改字
当該の文字を、同じような意味を持った別の文字あるいは語句に置き換える。稀ながら、避諱を行った文字を○で囲む書物もある。
空字
当該の文字自体を記さない。空欄にする、「□」の表記にする、「某」字や「諱」字に置き換えるなどの方法がある。
欠画(闕画/闕劃)
当該の文字の一画(通常は最終の一画)を記さない[1]。
『康熙字典』において、清聖祖の諱(玄Y)に触れる「玄」および「玄」を構成要素として含む字は、わざと最終画を欠いた形に作られている。
実例
中国での例
宰相を意味する「相邦」が漢の劉邦の諱である「邦」の字を含むことから、漢代以降は「相国」に改称された(これについては、漢より後の王朝も「相邦」に戻さなかった。)
楚漢戦争の説客、?通の諱は「徹」であったが、前漢武帝劉徹の諱を避けて「徹」と同義の「通」に差し替えられた(漢代以降も訂正されずに定着している)。
前漢の郷挙里選の科目には秀才があったが、後漢では光武帝劉秀の諱を避けて、「茂才」となった。
司馬遷撰『史記』・班固撰『漢書』では、前漢の歴代の皇帝の諱をそれぞれの本紀(皇帝の伝記)に記載しなかった。両書とも、後世の注釈で初めて諱が記載された。
後漢の許慎は建光元年(121年)に『説文解字』を完成させた。同書においては、後漢初代光武帝から当代の安帝までの各皇帝の諱(秀、荘、?、肇、?)は[注釈 2]、「上諱」とのみ記せられ本義の解説はなされていない。
西晋及び東晋では、司馬師(追号:世宗景帝)の「師」を避け、「京師」を「京都」と言い換えた。
東晋の都、建康の名称はもともと「建業」であったが、西晋の愍帝司馬?の諱を避けて「建康」と改められた。
東晋の書家王羲之は、祖父王正の諱を避け、「正月」と記するところを「初月」と書いた(『初月帖』など)。
唐代においては、太宗(李世民)の諱である「世」と「民」が公には使用できなかった。太宗は避諱を免ずる詔[注釈 3]を出したものの、後裔や臣下は厳に使用を避けた。そのため、300年近くにわたって代用字として使用された「代」や「人」の方が一般的になり、後代にまで影響を与え続けた。
サンスクリット仏典のアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokite?vara 観音菩薩)を漢訳するにあたり、東晋時代の鳩摩羅什は観世音菩薩と訳した[注釈 4]が、「世」の文字を避諱して「観音」とし、後代においても、この呼称が継承された。日本においても「観音」の呼称が一般的となっている。
唐代に編纂された『隋書』において煬帝が倭国に使わした使者の裴世清(『日本書紀』)が『隋書』では「裴清」と記された。
顕慶2年(657年)には、「世」「民」を含む「?」「葉」の字形を、それぞれ「昏[注釈 5]」「?[注釈 6]」と改めるよう命じられた。
唐の詩人杜甫は、父の名が杜閑であったため、その詩文に決して「閑」の字を用いなかったとされる。
同じく唐代の詩人である李賀は、父の名「李晋粛」の「晋」が「進」と同音であると因縁をつけられて進士科の受験を拒否された。
王錫侯が著した『字貫』の初版は、清朝歴代皇帝の避諱を行っていなかったために禁書となり、王錫侯も処刑された。
清の高宗乾隆帝の諱が「弘暦」であるため、「暦」の字が避けられ「歴」字で代用された。また、同様に「弘」の字も避けられ、弓(ゆみへん)を崩して、「ム」の部分を口とした文字が用いられた。
清朝から嘉納治五郎の「弘文学院」に留学した学生の賞状などでは、「弘」を避け「宏文学院」と表記された。
中華人民共和国の江蘇省儀徴市は避諱で3度改称した町として知られる。南唐のときには「永貞県」と称していたが北宋の仁宗趙禎の諱を避けて「揚子県」と改称した。その後「儀真県」の名を下賜された。その後清朝のときに雍正帝胤モフ諱を避けて「儀徴県」と改称し、さらに宣統帝溥儀の諱を避けて「揚子県」と改称された。