適塾
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適塾適塾説明板

適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学私塾1838年天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福澤諭吉大村益次郎箕作秋坪佐野常民高峰譲吉など多くの名士を輩出した。
歴史適塾建物横にある公園に設置された緒方洪庵の銅像
適塾

1838年天保9年) 洪庵が津村東之町(現:大阪市中央区瓦町三丁目)に蘭学塾を開く。

1845年弘化2年) 過書町(現:大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し移転。

1846年(弘化3年) 大村益次郎が入門。

1855年安政2年) 福澤諭吉が入門。

1860年(万延元年) 除痘館が適塾の南へ移転。

1862年文久2年) 伊東玄朴らの推挙により、幕府が強く要望したため、洪庵が江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任を受け入れて江戸に移住。西洋学問所では適塾式の授業が行われた。大阪の適塾塾生の教育には緒方拙斎(養子)が当たった。

1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。

1868年明治元年) 適塾閉鎖。

歴代塾頭

代数氏 名
初代
緒方洪庵
02代奥山静寂
03代久坂玄機久坂玄瑞の兄)
04代大村益次郎
05代飯田柔平
06代伊藤慎蔵
07代渡辺卯三郎
08代栗原唯一
09代松下元芳
10代福澤諭吉
11代長與專齋
12代山口良哉
13代柏原学而(孝章)

特徴

適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。

塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。

塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。

適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。

塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである[1]

緒方の死後は、福澤諭吉大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた。
閉塾後
関係者

1869年(明治2年)、後藤象二郎大阪府知事参与小松清廉の尽力により、八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院および仮医学校が設立される[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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